32年ぶりとなる日本開催のアジア大会がやってくる。別掲の「プレイバック・1994年広島アジア大会」の記事を書いているうちに、32年前の感動が鮮明によみがえってきた。
最終日、和田貴広(男子フリースタイル62kg級=国士舘大助手)の日本唯一の金メダル獲得に会場中が沸き返り、涙を流して喜ぶ人もいた。この金メダルが沈んでいた日本レスリング界に活力を与え、1996年アトランタ・オリンピックへ向けて、「期待」というエネルギーを乗せて出航することができた。
思えばあの頃、日本の男子レスリングはどん底状態だった(女子は世界一を維持していたものの、オリンピック種目でもアジア大会種目でもないことで世間の関心は低く、日本スポーツ界の中でのステータスも低かった)。
1992年バルセロナ・オリンピックが終わって低落が顕著になり、国際大会では、今のように「メダルを取るのが当たりまえ、金メダルをいくつ取るか」ではなく、「銅メダルであっても、メダルを取れれば、よくやった」という状況。世界選手権では1991・93・94年と3大会連続でメダル「0」だった。
1993年のアジア選手権では、フリースタイルが「銀1・銅1」、グレコローマンが「銀3・銅3」。この年からソ連が15の国に分かれ、そのうち5ヵ国がアジアに編入。最初はカザフスタンの数選手のみの参加だったが、いずれ強豪選手が多く出てくることが確実だった。
そんな中で行われたのが1994年広島アジア大会(男子両スタイルのみ)。グレコローマンでは韓国と新興のカザフスタンが優勝を分け合い、フリースタイルはイランが強かった。大会の最終日まで日本に金メダルはなく、男子フリースタイル62kg級の和田貴広に期待がかかった。
和田は、鹿児島・鹿児島商工高校(現樟南高校)時代に国体しか全国王者がなかったものの、国士舘大へ進んで潜在能力が開花。日本のフリースタイルの強豪にしては珍しく腰が高い構えだったことから「和製キム・ヨンシク(17歳で世界を制した北朝鮮選手)」、攻撃では一転して低い片足タックルを駆使することで「和製ジョン・スミス(オリンピック2度を含めて世界6連覇の米国選手)」と言われ、期待された(名付け親は協会機関誌「月刊レスリング」を編集していた私なのだが…)。
1993年アジア選手権でフリースタイル最高の銀メダルを取ったのも和田。イランとカザフスタンの強豪を撃破。決勝は北朝鮮に屈したが、同行した高田裕司コーチ(日本協会・元専務理事)に「米国、ロシア、キューバ、北朝鮮とともに世界の5本の指に入っている」と評価され、不振の日本の中で光るものを見せていた。アジア大会の前に行われた世界選手権(トルコ)は3回戦敗退。しかし内容はよく、首脳陣からの期待も高かった。
アジア大会では、まず中国とキルギスを破った。初戦が終わったあと、国士舘大の滝山将剛部長が「もっと攻めなければ駄目だろ」と声をかけたところ、「私は私のペースでやりました」と言って、にらみ返したという。昭和時代ほどではないが、上下関係が根強く残っていた時代、選手がここまで正面切って上の人間、ましてや部長に反発することなど考えられない時代だ。
「ばつが悪かった」と頭をかいた滝山部長は、和田の気持ちの強さに接し、「今回は大丈夫だと思った」と振り返っている。
決勝は2年前の世界ジュニア(現U20)王者・張在成(韓国)が相手。1点を争う緊迫した試合は、最後、和田が5-4で振り切り、日本に唯一の金メダルを引き寄せた。そのときのもようを、私は「月刊レスリング」に下記の通りつづっている。
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大歓声に包まれた中、残り時間が10秒を切った。カウントダウンの声が湧き上がる。和田貴広は張在成(韓国)のグラウンド攻撃を必死に耐えていた。
観客と日本のコーチ、そして競技役員のすべてが、和田とデジタル時計を交互に見る。ついに、その数字が「0」になった。拍手と歓声に包まれる館内。抱き合う者、そっと目頭を押さえた者…。体育館全体が大きなエネルギーを持った生き物のように躍動した。
「期待」というプレッシャーに耐え、和田が金メダルを取った。いや「懇願」「祈り」という言葉の方がぴったりか。金メダル「0」のピンチを迎え、日本レスリング関係者のすべての気持ちが集まった魔物(プレッシャー)だった。
セコンドのセルゲイ・ベログラゾフ・コーチとがっちり握手。7月に来日してから、献身的に支えてくれた恩人だ。(中略)そのあと、和田を待っていたのは祝福の雨あらしだった。「おめでとう」「よくやった」…。コーチや競技役員が、だれかれ構わず声をかけ合う。カメラマンのストロボが次々と光り、多くの報道陣が和田を取り囲み、その後を追う。
こらえていた和田の心が、ここで切れた。ほおに大粒の涙がこぼれた。それをタオルでふき、必死になって隠そうとする。しかし、感激の涙は止まってくれない。ウォーミングアップ場に戻り、報道陣から解放されると、タオルに顔をうずめ、心の底から泣いた(注=当時、取材は表彰式のあとだったように記憶する)。

▲「期待」というプレッシャーから解放された和田貴広は、ウォーミングアップ場へ戻ると、タオルに顔を埋めて号泣した(注=筆者は協会の“従軍記者”だったので、報道陣が入れない場所へ入ることができ、撮影しました)
(中略)館内の応援が、勝利への気持ちを強くしてくれた。「(大声援は)聞こえていました。ありがたかったです。他の国で行われていたら、負けていたと思います」
多くの応援があったからプレッシャーを感じた。だが、それをはねのけてくれたのも、応援者の存在だった」
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会場の熱狂を伝えられた記事だったと思っている。32年前といえば、今の代表選手はだれも生まれていない“大昔”。そんな長い時間を経ても、あのときの感動が走馬灯のように脳裏で回転している。地元開催での勝利と歓声は、そのくらい熱い。
この優勝を機に、ベログラゾフ・コーチ(ロシア)の指導のもと、和田の実力は急激に伸びていった。ワダ・スペシャル(この名付け親も筆者なのですが…^^;)が披露されたのは、約2ヶ月後の全日本選手権(関連記事)。翌春のワールドカップで世界王者マゴメド・アジゾフ(ロシア)を追い詰め、夏の世界選手権では撃破。世界から恐れられる必殺技となった。
和田につられるように、下田正二郎強化委員長の強いリーダーシップによって日本チーム全体がたくましくなっていった。海外遠征に同行する度に、選手の自信あふれる姿が頼もしく感じたもので、どん底にあえいでいた日本チームはどこにもなかった。あの昇り調子の日本チームに接することができたのは幸せだったし、レスリング記者として大きな“宝物”になっている。
今回のアジア大会に日本代表として出場する選手は、自信と誇りをもってマットに上がり、会場に熱狂の渦を引き起こす試合を闘ってほしい。大歓声の中での熱き闘いは、何ものにも代えられない財産になるし、和田がそうだったように、その後の選手生活を支えてくれる。末永く語り継がれ、日本のレスリング界も支えることになる。
32年前は、どん底からはい上がる転機となった地元のアジア大会。今回は、女子は世界一をさらに確固とするため、男子は世界一を視野に入れている状態から、頂点へ進む契機とする大会にしてほしい(2024年の男子フリースタイルは間違いなく世界一だったが、ロシアが参加している中のトップでこそ真の世界一でしょう!)。
私たちは熱い闘いを見守り、選手が情熱を精いっぱい燃やせるよう、心の底から応援しようではないか! 応援する人の熱き思いは、必ず選手に伝わり、勝利を目指すエネルギーになる。歴史の証人になることは、私たちにとっても大きな財産。選手の勇姿を、しっかりと目に焼きつけたい。
2021年東京オリンピックが無観客だった分、選手と応援者が一体となる熱いアジア大会を期待したい。
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