2026.09.04NEW

プレイバック、1994年広島アジア大会

 地元開催のアジア競技大会がやってくる(9月16日開幕、レスリングは9月30日~10月3日=名古屋市稲永スポーツセンター)。前回の日本開催の1994年大会(10月4~10日、東広島運動公園体育館)は、男子のみの実施。自社さ連立の村山内閣発足、戦後初めて1ドル=100円を突破するなどの情勢下、日本レスリング界の男子は“どん底”の時期。アジア大会の金メダル獲得の伝統が途絶えることが懸念される状況だった。

 しかし、男子フリースタイル62kg級の和田貴広(国士舘大助手)が日本唯一の金メダルを獲得し、地元での金メダル「0」の危機を救った。この金メダルで1996年アトランタ・オリンピックへ向けて希望の火が灯った。

▲32年前に東広島市で行われたアジア競技大会レスリング競技。日本レスリング界はどん底だった

▲開会式の選手宣誓を務めたのは地元広島出身の向井孝博(ヤマサン)

 いわば、地元の声援が沈んでいた日本レスリング界にエネルギーを与えてくれた。広島・東広島市で行われた1994年アジア大会を振り返ってみたい。


どん底の中にも、潜在能力を見せていた和田貴広

 広島アジア大会を振り返る前に、当時の日本レスリング界の状況を説明したい。金メダル5個を取った1964年東京オリンピックから、かなりの時がたち、日本レスリングの地盤沈下は1980年代には顕著となっていた。

 女子は1989年の第2回世界選手権で優勝選手を輩出。国別対抗得点で優勝して、その後、世界一の座を盤石にしたが、男子は1991年世界選手権(ブルガリア)でメダル「0」に終わる惨敗。1959年世界選手権以来、32年ぶりにオリンピックと世界選手権でメダルがない惨敗を喫し、1993・94年の世界選手権でもメダルがなかった。

 追い打ちをかけるように、ソ連が15の国に分かれ、カザフスタンなど5ヶ国がアジアに編入された。1993年のアジア選手権は金メダル「0」。世界どころか、アジアでも勝てない状況となり、迎えたのが地元アジア大会だった。

▲ソ連王者として1992年バルセロナ・オリンピックで銅メダルを取った男子グレコローマン82kg級のダウレット・ツルリハノフ。カザフスタン選手としてアジア大会に出場し、見事に優勝。旧ソ連選手の躍進を感じさせた。のちにUWWアジアの会長を務めた

 だが、下田正二郎強化委員長(当時山梨学院大監督)以下、強化スタッフの情熱は消えておらず、どん底の中にも、潜在能力を見せたホープがいた。大学4年生にして1993年アジア選手権で銀メダルを獲得したフリースタイル62kg級の和田貴広だ。

 1994年春は、US国際トーナメント(米国)で海外初優勝、東アジア国際トーナメントでは、当時日本より勢いのあった韓国選手を破って優勝。ワールドカップや世界選手権での活躍はもっと後になるが、厳冬の雪に覆われた日本レスリング界の中で、かすかな芽を出していたのが和田貴広だった。

 1994年夏には、外国人コーチにセルゲイ・ベログラゾフ氏(ロシア)が就任。和田貴広のファイトスタイルにぴったりマッチした技術指導で実力を伸ばし、アジア大会制覇の期待が高まっていた。

グレコローマンは韓国が8階級で優勝

 アジア大会はグレコローマンからスタートした。当時のアジアのグレコローマンは韓国の天下。結果として8階級を制覇し、新興のカザフスタンが残る2階級で優勝。日本は10階級中、9選手が2回戦までに優勝の望みがなくなる状況だった。

▲10階級中8階級で優勝した韓国グレコローマン・チーム。日本は大きく遅れをとっていた

▲グレコローマン100kg級を制した宋聖一(韓国)。このとき末期がんにおかされており、約3ヶ月半後に旅立った

 唯一、1回戦でイラン選手を破った130kg級の鈴木賢一(読売千葉広告社=現大東大監督)が決勝に進み、韓国選手に挑んだが、0-4で敗戦。日本は前年のアジア選手権に続いて金メダルなしに終わった。ただ、森巧(68kg級)、片山貴広(74kg級)、森山泰年(90kg級)、野々村孝(100kg級)が敗者復活戦を勝ち上がって銅メダルを獲得。意地は見せた。

▲日本グレコローマンで唯一決勝へ進んだ130kg級の鈴木賢一(読売千葉広告社)だったが、韓国選手に屈した

 1日の休息日をはさんで行われたフリースタイルは、イランが勢力を持っており、軽量級は北朝鮮が強かった。北朝鮮は日朝関係の悪化と、公にはしなかったが同年7月の金日成主席死去による服喪もあって不参加。その追い風も生かせず、48・52・57kg級で早々と金メダルの可能性が消滅。68kg級の勝龍三郎(現大分・日本文理大附高教)が決勝へ進んだが、イラン選手に敗れて銀メダルだった。

最終日、日本の期待を背負って3選手が決勝のマットへ

 最終日、和田貴広、74kg級の太田拓弥(現大東大コーチ)、90kg級の伊藤敦(現立命館大コーチ)に金メダルの期待がかかることになった。

 3人の中で最初にマットに上がったのが和田貴広。相手は2年前の世界ジュニア(現U20)王者の張在成(韓国)。1点をめぐる攻防となり(注=当時、テークダウンは1点)、和田貴広が5-3から5-4と追い上げられて終盤の攻防へ。張在成の逆転狙いのローリングを耐え、終了のブザー。日本に金メダルを引き寄せた。

▲日本の期待を受けて決勝のマットに上がった和田貴広

▲金メダルを決め、マットの上で躍動した

 太田拓弥は0-2で、伊藤敦は0-4でともにイラン選手に敗れたため、和田貴広の優勝が日本唯一の金メダル。地元開催のメンツを保つとともに、以後、ベログラゾフ・コーチの指導によって日本チームの実力は急上昇。実力復活の大きな起爆剤となった大会だった。

▲アジア大会は2位に終わったフリースタイル74kg級の太田拓弥(茨城・霞ヶ浦高教)。この大会を機に実力を伸ばし、1996年アトランタ・オリンピックでメダル「0」の危機を救った

 大会は、グレコローマンが韓国8階級、カザフスタン2階級で優勝。フリースタイルはイランが6階級を制し、日本、カザフスタン、モンゴル、韓国が1階級ずつ優勝した。


日本選手成績


当時のルール

【試合時間】5分1ピリオド(延長戦は最大3分)

【勝敗決定方法】3点ノルマ制(日本協会が定めた用語)が採用されていた。規定の5分間が終了した時点で、どちらも3点以上を獲得していなければ勝者になれず、延長戦へ。どちらかが3点を取った時点で、その選手が勝者となる。

 延長終了時に、どちらも3点を取っていない場合は、ポイントが多い方が勝ち、同点の場合は内容で決まった。(2004年アテネ・オリンピックまで、このルールが続いた)

【試合方式】1回戦から決勝を2日をかけて実施。1回戦の勝者がA組、敗者がB組へ。A組はそのままトーナメント方式で優勝を争う。B組を勝ち抜いた選手が、A組で3番目の選手と3位決定戦を行った。(A組の途中で負けた選手は、そこで終了。3位になることができなかったのに対し、1回戦で負けた選手は3位になる可能性があるという理不尽な方式で、この年の1年だけで終わった)

【計量】試合前日の夕方、1回のみ