2025.10.08

《取材日記=完》北朝鮮のオリンピック王者キム・イルに再会

(文・撮影=樋口郁夫)

《9月11・12日》  《9月13日》 《9月14日》 《9月15~17日》 《9月18~19日》


【9月20日(土)】

 長かった世界選手権も、あと2日。この頃になると、それまでの疲れも忘れ、「もう終わってしまうのか…」という寂しさの方が強くなってきます。第1セッションで日本選手が勝ち進まなかったことや、夜のファイナルにだれも出ないことも、その気持ちに拍車をかけます。

 男子フリースタイルと女子で台風の目となった北朝鮮のセコンドに、思いもかけない人物の姿を見つけました。1992年バルセロナ&1996年アトランタ・オリンピックのフリースタイル48kg級を制したキム・イルです(昭和のプロレスファンなら、大木金太郎を思い浮かべるでしょうが、そのキム・イルではありません^^)。

 念のため、カメラの望遠レンズを使ってIDカードを撮影。パソコンに取り込んではっきり見ると、「KIM IL」と書いてある。北朝鮮協会の書記長(日本でいう専務理事)になったという情報もありましたが、まだ現場に出てくるのでしょうか? しかも、グレコローマンで。60kg級のリ・セイウンの師匠なのかな?

▲【左写真】29年前の面影が残っていたキム・イル、【右写真】念のためIDカードを“盗撮”して確認しました

 コロナ前だったと思いますが、何かの大会にキム・イルらしき人がセコンドについていたので、今度会ったとき、1996年アジア選手権(中国)で撮った写真を渡そうと思い、遠征取材のときは、いつも持ってきていました。なかなかチャンスがなく、今大会ではフリースタイル、女子ともに姿が見られなかったので、今回もダメか、と思っていた矢先に発見しました。

 渡すタイミングを見計らっていましたが、選手の全試合が終わった後がいいだろう、と思い、60kg級の3位決定戦でリ・セイウンが勝ったあとにしました。グーグル翻訳で韓国語に訳した「あなたは1992・96年オリンピック王者のキム・イルですか?」「私を覚えていますか? 1996年アジア選手権(中国・Xiaoshan)であなたの写真を撮りました」というプリントを持ち(ポータブルのプリンターを持っていっています)、選手通路で待ちました。

 問いかけてみて、間違いなくオリンピック王者のキム・イルだったので、2枚目のプリントを見せ、写真(下写真とプリント数枚)を渡すと、意外そうな顔をして照れました、もう一人のコーチが「ワオー」とか言って驚きの表情を見せましたが、リ・セイウンが、もっとはしゃぎました。恩師の選手時代の写真を見せられて、うれしかったみたいです。

▲遠征の度に持っていきながら、なかなか渡せなかったキム・イルの写真(他にプリント7枚)。やっと渡せました^^

 もう1枚、「北朝鮮、頑張れ」というプリントを見せると、キム・イルはにっこり。リ・セイウンは「サンキュー」と言ってうれしそうでした。銅メダル獲得の喜びもあったのでしょう。日朝の友好に少し役立つかな?

 最近の報道からして、北朝鮮にはあまりいいイメージ持っていない人が多いと思います。私は1996年アジア選手権で、取材に来ていた日本語を話せる北朝鮮記者(もしかしたら、監視を兼ねていたのかも)の通訳のもと、キム・イルとリュ・サンマン監督に取材し、親しみを持てる人たちという気持ちを持っています。リュ監督に「日本と交流は?」と質問したところ、「やりたいです。その日が来ることを心待ちにしています」と声を大きくしたことが思い出に残っています(あれから29年。まだ存命かな…)。今のコーチ、選手も同じ気持ちなのではないでしょうか。

 ファイナルには、日本選手はだれも出ないため、写真撮影だけして(この時点で午後8時すぎ)、布施記者、保高カメラマン、成國カメラマンと初日以来の食事会。保高カメラマンがネットで探してくれた魚の店に行きました(ウエーターがミルコ・クロコップに似ていた)。

 ザグレブはクロアチアの中でかなり内陸に入っているので、川魚の店でしょう。大きな魚がありましたが、それ1匹で200ユーロー(約3万5,000円)。これはちょっと尻込みし、手頃な金額で食べられるものにしました。

▲4人で食事したのは、初日以来です

 何日か前に、布施記者に知り合いのカメラマンから「連日、クロアチア料理を堪能していますか?」とのラインがあったそうですが、そんな時間があるわけないんです。試合が終わったら仕事が終わりではなく、それからまた仕事が私たち(インターネットができる前の雑誌の取材では、「取材終了=仕事終了」もありましたね)。

 医師が患者の腹を開けたままにして食事に行くことがないのと同じで、やるべき仕事をほったらかして食事に行くことは、私(布施記者、保高カメラマンも?)の感覚ではありえません。

 前にも書きましたが、私は人にこの仕事は絶対に勧めません。後継者を育成しようという気持ちもありません。過労死して、本人から、あるいは家族から恨まれたくないです。やる人が出てきてほしい、という気持ちはありますが、その場合でも、自分がやってきた仕事量をやらせることはないでしょう。私は、他から強制されたわけではないから、できたのであって、そうでなければ、やっていられないと思います。

 それは選手にとっての練習も同じだと思います。自分の意思でやる練習はいくらでもできるでしょうし、練習時間が来ることが楽しみでしょう。強制された練習は長続きしないはず。最近、現場でよく聞く言葉、「レスリングを好きになってくれる練習」が大事なのだと思います。

 いずれにせよ、レスリング専門記者の出現を願っています。よろしくお願いします!

▲夜の試合会場。この頃になると、惜別の気持ちでいっぱいになる。感動をありがとう!


【9月21日(日)】

 最終日。試合開始は午後4時半なので、それまでの間、前夜の3人とザグレブ市内の散策。2年前の世界選手権でも最終日にベオグラード観光に行きました。最後に気持ちをリフレッシュできるときですね。

 なぜか私がツアーコンダクターになり(つまり、私は便利屋として、そこにいるわけです^^;)、プリントしたザグレブの観光案内や地図を見て3人を引率します。最寄り駅までの間に「キオスク」(小売店)があり、そこできちんと路面電車の切符を買いました。今度は間違わずに「14番」に乗ります。

▲路面電車を撮影する成國カメラマン。“隠れ撮り鉄”かな?

 イェラチッチ広場を目指し、「Trg J. Jelačića」駅に向かいます。私の「11駅で約25分」との説明に、保高カメラマンは「23分後にタイマーが鳴るようにします」との対応。万が一にも寝ていても、乗り過ごすことがない。

 私は寝ることもなく、そろそろかな、と思って止まった駅の標識を見たら、「Trg」という文字が目に入ってきました。「ここだ!」と叫んで、ドアが閉まる寸前に4人が降りました。保高カメラマンが「まだ23分たってないですよ」と言ってきました。確かに、広場らしいところはなし。

 よく見ると、私たちが降りたところは「Trg Rep. Hrvatske」という駅で、目的駅の2つ前でした^^; 最初の「Trg」を見た私が間違ったのです。頼りにならないツアー・コンダクターだ。

 2人の女性の「これだから、おじさんは駄目なのよね~」という冷たい視線に耐えながら、グーグルマップによると目的地まで歩くと14分もかかるので、次の電車を待って乗り(1枚の切符で、30分以内なら何度でも乗れます)、2駅先で降ります。そこからドラツ市場や町のシンボル「大聖堂」などへ。

▲ザグレブの中心、イェラチッチ広場にある総督の銅像

 ただ、大聖堂は2020年3月に発生したザグレブ大地震の影響で工事中でした。5年たっても、まだ工事をやっているとは、日本の感覚ではちょっと考えられない。でも、2016年の熊本地震にやられた熊本城も、当初の完全復旧のめどは20年後で、細部の修復の難しい問題が出てきて、最終的には2052年完成だとか(2021年には一般公開再開)。一軒家を建て直すのとは、訳が違うんですね。

 途中、中国チームの役員やノルウェーの記者と遭遇。「Wrestling」という文字の入ったジャージを着た集団も見かけた。皆さん、つかの間の時間に観光をしているようです。昼食はギリシャ料理。パンがあるはずのところに、インドのナンのようなものがあったので、「これは何ですか?」と聞いたが、保高、成國の両女性は笑ってくれず、布施記者のみニタリ。寂しかった^^;

▲昼食に食べたギリシャ料理。左のプレートにあるナンのような食べ物は、何でしょう?

▲昼食を食べた斜め向かいにハーゲンダッツ(Häagen-Dazs)の店。成國カメラマンは食事が終わると、ただ一人、食べに行きました。若い女の子には“別腹”がある、というのは本当のようです

▲ザグレブ市内を一望!

▲尾西桜と元木咲良の「優勝セール」をやっていた寿司レストラン「さくら」(うそです)

 最後にザグレブ市内を一望できる建物から絶景を堪能。世界で一番短いケーブルカーは工事中で乗れず、徒歩で最初の場所に戻って路面電車で宿舎へ戻りました。

 小休止のあと最後のセッションを取材。オーストラリア国籍に変えた下山田培選手が敗者復活戦の第1試合に勝ちましたが、第2試合で惜敗。同国に住んでから、もう3年くらいかな。コーチと普通に英語で話していました。うらやましい。繰り返しますが、日本人もこうならなければなりません。

 期間中は「疲れた」「もう年だ」と思いながら、最終日が終わると、言いようのない寂しさに襲われます。この気持ちを味わうのは、あと何回か。選手が熱い闘いを見せてくれるから、体が動く限り、また来年も来たい気持ちになるのが最終日です。

▲全試合が終わり、撤去作業が始まった会場。何とも言えない寂しさに襲われますが、明日になれば来年の大会へ向けてのカウントダウンが始まります

 この取材日記、協会ホームページをやっていたときにも書いていて、けっこう読まれていました。しかし、「協会サイトに個人のことを色濃く載せるのは、いかがなものか」という声があり、2015年を最後にやめてしまいました。今は協会を離れてのサイトなので、再び書くことにしましたが、以前は毎日、アップしたんですよね。

 今回、とてもそんな時間がない。以前、よく毎日書いていたな、と不思議でした。考えてみると、以前は男女21階級で、1日3階級ずつの7日間だったんです。今は1日4階級が続きます(最後の2日のみ3階級)。この1階級の差で、仕事量が増えているんです。疲れるわけだ。(参考までに、過去ブログを下記にリンクします。興味があったら読んでください。「時間を無駄にした」と思っても、責任は持ちませんので、あしからず)

《2005年=ハンガリー》 《2006年=中国》 《2006年アジア大会=カタール》
《2007年=アゼルバイジャン》 《2009年=デンマーク》 《2010年=ロシア》
《2010年アジア大会=中国、不明》 《2011年トルコ》 《2012年オリンピック=英国》
《2013年=ハンガリー》 《2015年=米国》

 というわけで、今年の世界選手権が終わりました。22日(月)はドイツ・ミュンヘン~ソウルを経て成田空港に戻りました。ご愛読、ありがとうございました。

《完》