(文=布施鋼治)
「明日は母の誕生日。アジア大会と世界選手権の出場切符は、最高の誕生日プレゼントになったんじゃないかと思います」
2026年明治杯全日本選抜選手権最終日(5月24日)、男子グレコローマン60kg級で優勝し、その勢いでプレーオフも制した鈴木絢大(レスター)は、充実感に満ちた笑顔とともにそう語った。関係者によって、インタビュースペースに母・貴美子さんが招き入れられると、ツーショットで記念撮影に応じた。
「どん底からはい上がってくれた息子は、わたしの誇りです」(貴美子さん)
母の言葉通り、「どん底からはい上がった」と呼ぶにふさわしい逆転劇だった。鈴木はこの階級で、長らく文田健一郎(ミキハウス)に続く二番手の位置につけ、非オリンピック階級の63kg級も合わせると、全日本選手権で3度、全日本選抜選手権で2度優勝した経験を持つ。
しかしながら、鈴木が優勝した大会はいずれも文田が欠場した大会で、2021年東京オリンピックへの出場を目指すときも、あくまで“文田の対抗馬”という立ち位置だった。
東京大会出場の機会を逸し、2023年アジア大会で銀メダルを取ったあと、60kg級でモチベーションを保つことができず、63kg級に一時的に転向する。尻に火がついたのは、昨年のこの大会の決勝で中村真翔(育英大)に2-12のテクニカルスペリオリティで敗れたことだった。
「鈴木絢大は終わった」という心ない声も本人の耳に届いた。もともとケガも多く抱えていたのに加え、大学の後輩である稲葉海人(滋賀県スポーツ協会)や昨年の全日本選手権を制した五味虹登(群馬ヤクルト販売)の台頭もあって、ポジション的には文田の真後ろではなく、稲葉や五味の後塵を拝することになった。
昨年12月の全日本選手権で60kg級に復帰したものの、準決勝で五味に黒星。リベンジの機会を虎視眈々と狙っていた。この大会第3日、筆者はマットに上がった鈴木を見て驚いた。サポートもテーピングもしていない。動きを見ても、ここ数年では最高のコンディションをキープしているようだった。
「自分はケガがすごく多い。昨年の天皇杯の前もあばら骨をケガしてしまい、いろいろな古傷に悩んだり…。今回は自分の体と向き合いながら、栄養や休養をしっかり考え試合を迎えられたのがよかったんだと思う」
今大会の決勝は、成長著しい日体大の後輩・稲葉と対戦。同点で自分が有利になってからの試合運びはベテランの味を感じさせた。「僕も今年で28歳になる。相手も研究しているし、自分が攻めてばかりの展開だと、うまくいかないときもありますからね」
昨年の全日本選手権のリベンジマッチとなった五味とのプレーオフでは、第1ピリオドで2-5とリードを許しながら、第2ピリオド開始早々、起死回生の巻き投げを決め、一挙に4点を獲得して6-5と逆転に成功した。
「相手は自分のグラウンドを警戒し、差してこないと思った。差してきたら距離を保って(パシビティーで)グラウンドの攻撃権をとれる。逆に、前に詰めてきたら巻き投げを決めようと思いました」
残り時間30秒までは自分が優勢の6-6。その直後、五味がステップアウトを狙ってくると、場外際で体を入れ換えて7-6とリードを奪い、勝利を引き寄せた。
この先、アジア大会と世界選手権も重要だが、今年12月の全日本選手権で63kg級から60kg級に戻すことが予想される文田健一郎との対決は避けられない。「あの人を倒さない限りはロサンゼルスでの金メダルは見えてこないです」
高校まで静岡県で生まれ育った者にとって隣の愛知県でアジア大会が開催されることには大きな意味がある。アジア大会での順位を前回よりひとつあげることで、鈴木は“打倒文田”の一番手として名乗りを挙げるのか。どん底を味わった男は精神的に強い。