2025.06.06NEW

【特集】母校に黄金時代の活気を取り戻せるか…至学館大の指導陣に加わった土性沙羅コーチ

(文・撮影=布施鋼治)

 「ラスト1本! 1本取りにいこう!!」

 5月上旬、愛知県大府市にある至学館大レスリング道場に、2016年リオデジャネイロ・オリンピック金メダリスト、土性沙羅の声が響いた。

「さあ、どうする? そこからだよ」

▲コーチとして至学館大のマットに立つ土性沙羅

 視線の先には、練習に励む後輩の姿があった。2年前、地元の三重県松阪市の市役所に入庁したことはよく知られているのに、なぜ? 

 市役所で働くようになったきっかけから聞いてみよう。「そもそもわたしは人前に出たり、話をしたりというのは、向いていないと思ったんです。だから、レスリングとは違う職種で、地元に恩返ししようと思ったんですよ」

 初めてのデスクワークや電話応対は全て新鮮だった。転機は業務のひとつとして松阪市内の小中学校で出前授業をしたことだった。

 「いつも300人から400人の子供たちを前に話すんですけど、最初は緊張してしまって、大汗をかきながらやっていましたね(苦笑)」

 レスリングをやることとは、わけが違った。

 「だって、レスリングはしゃべらなくてもいいじゃないですか(笑)。試合は、自分がやってきたことをそのまま出せばよかった。けれど、話す方は慣れていなくて、最初は原稿を読みながらやっていました。回を重ねていくうちに、子供たちのアドリブにも対応できるようになったり、原稿なしに自分の言葉でしゃべれるようになっていったんですよ」

▲市役所職員時代の土性沙羅=本人提供

社会人生活を経験し、新たな挑戦への気持ちが芽生える

 出前授業も2年目に入ると、土性は自分が意外と話せることに気付く。そうすると、今までやってこなかったことにも挑戦したくなった。「コーチ業にも挑戦してみたい」

 それまでは、人を教えることなんて絶対無理だと思っていたのに、ちょくちょく至学館大に顔を出すようになった。

 「私にとっては慣れ親しんだ場所ですからね。久しぶりに後輩と一緒に練習したり、ちょっと息抜きという感じでした。至学館のレスリング場にいるだけで楽しかった」

 そんなことを繰り返すうちに、土性は「コーチ業もやっていけるかも」と思い立つ。ちょうど2024年夏頃のことだ。長らく至学館大を牽引してきた恩師・栄和人氏が2025年3月いっぱいで監督職から退任することを耳にしたタイミングだった。

 栄氏からも「やってみないか?」と背中を押された。

 「監督からそう言われ、本気で考え始めた部分もありましたね」

 その後、転職したい気持ちを松阪市役所に伝え、今年4月から正式に至学館大のコーチに就任した。

▲栄和人監督の“勇退式”(3月15日)に、金城梨紗子(左)登坂絵莉(前列中)とともに駆けつけた土性沙羅。4月から指導を引き継いだ

女性特有の体調不良にも目を届かせる

 土性は市役所での日々に深く感謝している。「オリンピック金メダリストで、一般社会を経験している人はなかなかいない。わたしもレスリング一筋でやってきて、アルバイトひとつしたこともなかった。友達から『仕事、大変なんだよ』という愚痴を聞いても、ピンとこなくて『そうだよね』みたいな生返事しかできなかったですから」

 初めての社会人生活は、土性を大人にした。「いざ自分が働いてみると、友達の気持ちがものすごくわかるようになりました。市役所での経験がなければ、たぶん、もっといろいろなことに挑戦したいというふうにも思えなかったでしょうね」

 現在、至学館大の指導陣は、川瀬克洋コーチと有延大輝コーチと合わせて3人体制を敷く。「女性特有の体調不良もわかってあげられると思うし、自分も選手だったということもあるので、選手たちに寄り添っていけるんじゃないかと思います」

▲選手とのコミュニケーションを大事にして指導にあたる

 現役時代の晩年はけがにも苦しめられただけに、選手のけがには敏感だ。

 「けがは、しないにこしたことがない。けれど、してしまったら付き合っていくしかない。ひざが痛くてタックルで踏み込めないという選手もいる。だったら、どうやったら痛くないようにレスリングができるか。そういうことを伝えるようにしています」

ときには厳しく、ときにはやさしく-

 至学館大の黄金時代に生き抜いた一人だからこそ、選手たちの生活態度には厳しい。

「けがをしないためには、練習の開始ぎりぎりに来るのではなく、30分ほど早く来て入念にストレッチをして予防する姿勢も大事。朝練習とかは、ぎりぎりに来る選手が結構多いんですよ。わたしの時代には考えられないことなんですけどね」

▲新しい名刺を見せる土性沙羅コーチ

 ときには厳しく、ときにはやさしく-。現在の指導は週3回。指導する日は午前5時半からの朝練習にも付き合う。

 「今は朝5時でも結構明るいけど、冬なんて真っ暗。自分が現役のときも『冬は寒くて眠たかった』というようなことを思い出しながら指導するようにしています」

 土性のコーチ就任に、歴代の至学館大出身のOGたちも敏感に反応。「沙羅がいるなら、遊びにいく」という連絡が頻繁にくるようになった。土性は母校に黄金時代の活気を取り戻せるか。