「火事場の男」
文=長田渚左(スポーツ・ライター)
日本のレスリング界で、男子でただ一人オリンピック2連覇を達成した上武洋次郎。強さの秘密は“火事場の馬鹿力”を出せること。上武は試合にすべての力を出すため、準備運動なしに試合に臨んでいたという。
(本文より)
楽勝ムードが漂っていた。
金メダルに王手のかかった試合だったが、会場には決戦を前にした独特の緊張感はなかった。
ポイント計算で、その試合に勝つか引き分ければ優勝が決まる。敗れさえしなければいい、誰もがそう思っていた。
しかし、上武は爆弾を抱えていた。誰にも告げていなかったが、実は左肩を半脱臼していたのだ。試合を長引かせることは得策ではない。早い時間で結果を出さなければ。
一気に攻めた。開始2分45秒、タックルから得意の「飛行機投げ」の体勢に入った。その瞬間、左肩が完全にはずれてしまった。