「今も心のどこかにある憂いを消せない男 ― 1980 年の悪夢 ―」
文=スポーツ・ライター 長田渚左
史上初めて全日本学生選手権4連覇を達成した宮原章。五輪王者となるべく最後のチャンスは、ボイコットによってはかなく消えていった。
(本文より)
彼は練習相手のほとんどいない秋田でモントリオールを目指すことになった。
「母校のレスリング部といっても高校生が相手ですから、スパーリングのできる相手はひとりしかいなかったです」
慣れない仕事の重責とモントリオールへの不安に挟まれ、選考試合を前にして13kgの減量を抱え込んでしまう。
「減量の言い訳はできない。誰のせいでもない、自分の失敗でした」
代表選手となったのは、自分の代わりに自衛隊へ入隊したライバル選手だった。同じ轍は踏まない。彼は4年後のモスクワへ向けて徹底した自己管理を貫いた。
「78年、79年の世界選手権では2位でしたから、モスクワではその上を狙ってましたけれど」
しかし、モスクワは流れていった。98年の暮れに新築された住まいの壁には、今も「モスクワ・オリンピック代表の認定証」が掲げられていた。
「これが目に入ると、まずモスクワを思い、それに4年前のモントリオールが重なる。人にとってチャンスは1回だと思う。モントリオールでつかまなかったから、こんなことになったと自分に言い聞かせてる」