「オリンピックに4度“出場”したが… 失われた青春は戻らない」
文=樋口郁夫(日本レスリング協会広報委員)
選手としての全盛期を戦争で棒に振った猪狩則男。審判の道を歩み、東京オリンピックでは審判長を務めたが、常に脳裏をよぎったのは「選手として、この舞台に立ちたかった」という思いだった。
(本文より)
すべてのスポーツ選手の夢、オリンピック。1970(昭和45)年4月から1982(昭和57)年3月まで12年間、日本協会理事長を務めた猪狩則男さんも、オリンピックにあこがれて選手生活をおくった人だ。
戦争によって、その夢を阻まれた。それでもオリンピックへの夢を捨てられなかった猪狩さんは、審判として3度、日本チームの監督として1度の計4度、オリンピックの舞台を経験した。だが「選手としてオリンピックのマットに上がりたかった」との思いは消えなかった。それほどまでに憧れるのがオリンピックだ。
猪狩さんの“青春”を振り返ってみた。