※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=樋口郁夫、撮影=矢吹建夫) 2001年(二部リーグ)以来の優勝となった国際武道大

監督は1988年ソウル・オリンピック金メダリストの小林孝至氏。2008年3月から指揮を執り、自宅から車で片道2時間の場所にある大学へ毎週末のペースで通い、指導を続けてきた。
部員不足で棄権を余儀なくされた年(2010・11年)もあったが、それらを乗り越えての一部復帰。それだけに喜びいっぱいかと思われたが、「来年のことを考えると、大変だ、という気持ちが半分以上」とのこと。優勝の喜び以上に一部で闘うことになる不安の方が大きい心情を吐露した。
7年間の監督生活の中で大変だったのは、技術指導以上に部員集め。「今年は(例年より)多くいましたので、それが優勝の要因かもしれません。多くの選手がいて、いろんなタイプと練習して強くなるスポーツだということを、あらためて思い知らされました」と、“数”による実力向上があり、これが大きな要因だと振り返った。 選手にアドバイスを送る小林孝至監督

初戦は「黒船の来航か?」とも言われた日本ウェルネススポーツ大との対戦だった。選手にも緊張があったようだが、「(相手の)情報がなかった分、思い切ってできたと思います。このくらいの試練を乗り越えなければ、優勝は語れないと思った。心配はしたけど、覚悟は決めていた」とのこと。ここを5-2で勝ち、波に乗れたのだろう。
最終戦の相手の立大は、山形・山形商高や群馬・館林高などの強豪高校出身の選手もいて難敵だった。「リードしていながら、(体勢を崩しての)逆転フォール負けもあって、最後まで冷や冷やでした」と振り返る。この試合は3-4で負けてしまい、ともに5勝1敗。内訳の勝敗も同点だったので、勝ち点の合計での勝負となった。
正確を期するため、各試合のジャッジペーパーを取り出しての点検作業となり、結果が出たのは約25分後。待つ間は「2位でも入れ替え戦がある。緊張を切らせてはならない」と自分に言い聞かせていたという。昨年は東海大に敗れて優勝を逃していただけに、「(一部15位で入れ替え戦出場が決まっていた)東海大との入れ替え戦でリベンジして上がるのもいいか」とさえ思ったという。
しかし、「よく考えてみると、けが人続出で、入れ替え戦になったら闘える状況じゃなかったんですよね」と苦笑い。闘うことなく昇格を決められてホッとしたところだ。
■「優勝」によって、さらに団結を 立大戦でチームスコア1-3のあと、フォール勝ちした1年生の相澤和哉(京葉工高卒)

王者との試合では「けがしないようにしてほしい。それだけの実力差はあります」と謙そんしつつも、「去年、東海大に負けてから選手がまとまった。今回の優勝を機に、さらに団結して実力を伸ばしてほしい。やる気だけでは勝てないレベル。技術を学び、レスリングを理解する姿勢が必要なので、そうした意識を持ってほしい」と選手たちのさらなる奮起を望んだ。
■国際武道大の東日本学生リーグ戦成績
| 年 | 所 属 | 順位 |
| 1988年 | 三部 | 3 位 |
| 1989年 | 〃 | 優 勝 |
| (リーグ改編) | ||
| 1990年 | 二部A | 優 勝 |
| 1991年 | 一部B | 7 位 |
| 1992年 | 〃 | 8 位 |
| 1993年 | 〃 | 8 位 |
| 1994年 | 〃 | 8 位 |
| 1995年 | 〃 | 8 位 |
| 1996年 | 二部A | 優 勝 |
| 1997年 | 一部B | 5 位 |
| 1998年 | 〃 | 7 位 |
| 1999年 | 二部A | 優 勝 |
| 2000年 | 〃 | 優 勝 |
| (リーグ改編) | ||
| 2001年 | 二部 | 優 勝 |
| 2002年 | 一部 | 16 位 |
| 2003年 | 二部 | 5 位 |
| 2004年 | 〃 | 4 位 |
| 2005年 | 〃 | 6 位 |
| 2006年 | 〃 | B4位 |
| 2007年 | 〃 | A4位 |
| 2008年 | 〃 | B4位 |
| 2009年 | 〃 | A4位 |
| 2010年 | 〃 | 棄権 |
| 2011年 | 〃 | 棄権 |
| 2012年 | 〃 | B3位 |
| 2013年 | 〃 | B2位 |
| (リーグ改編) | ||
| 2014年 | 二部 | 3 位 |
| 2015年 | 〃 | 優 勝 |