※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
試合後の永山明弘さんとプロレスラー時代の永山さん
同団体には、日大の主将を経てプロレス入りし、のちに才能を認められて新日本プロレスにスカウトされた福田雅一さん(2000年4月にリング禍で死去)がいたが、福田さんのデビュー戦の相手だったという。新日本プロレスに在籍した仲野信市さんがコーチとして加わり、けっこう厳しい練習を課されて、「毎日、もう終わりにしよう、と思っていた」そうだ。
同団体が消滅し、紆余曲折を経て現在は電機メーカーの会社員やっているが、太田章クラブにいる先輩から誘われて汗を流すうちに、「みんなにそそのかされて」(本人談)レスリング・デビューを果たすことになった。練習は週1~2回で、レスリングのキャリアは約9ヶ月。大会前に脚の肉離れを起こし、医師から「勇気をもって棄権しなさい」とストップがかかった状態だったそうだが、「せっかくだから」と、“プロレスラー魂”を発揮して強行出場。勝敗を度外視し、とにかくやってみると挑んだ。 一瞬だがフォールの体勢へ!
周りの応援も来年の再挑戦へ気持ちが傾いているひとつ。「この年になって、これだけ多くの人から励まされるなんてこと、そうそうないでしょう。周囲が出る以上、私も出続けてみたいと思います」と言う。
会場には、1988年ソウル・オリンピックのレスリングの実況をした元日本テレビ・アナウンサーの松永二三男さんが訪れたが、松永さんの姿を見つけると、永山さんの目が輝いた。プロレスに憧れをもって見つめていた学生時代、故ジャイアント馬場さん率いる全日本プロレスの実況をやっていたのが松永さんだったからだ。
試合間の昼休みに松永さんに声をかけ、プロレス研究会では馬場さんが法大まで来てくれて受け身の指導をしてくれたことや、プロレスラー時代は負け続けだったにもかかわらず、やり続けた理由などを熱弁。楽しい大会参加となったようだ。