※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=樋口郁夫)
2005年のイズミール(トルコ)大会以来、8年ぶりに実施されるユニバーシアードのレスリング競技(7月11~16日、ロシア・カザン)。男子フリースタイルで唯一の社会人選手が66kg級の田中幸太郎(阪神酒販=早大卒、右写真/注=ユニバーシアードは卒業後1年半までの選手が出場できる)だ。
“米国史上最高のレスラー”と言われるジョン・スミス(1988年ソウル・1992年バルセロナ両オリンピック優勝)をほうふつさせるローシングル(足首を狙う低い片足タックル)を武器に、中学時代から頭角を現した。2010年の世界ジュニア選手権(ハンガリー)と2011年のプレ・オリンピック大会(英国)で銀メダルを獲得。国際舞台での実績もあり、日本代表チームをけん引すべき選手だ。
昨年は早大の主将としてチームを引っ張った。団体戦での優勝はならなかったが、自身は全日本選抜選手権と全日本大学選手権で優勝し、リーダーとしての責任をしっかり果たした。その責任感を今回も発揮し、8年ぶりの“学生の祭典”を盛り上げてほしいところだ。
6月の全日本選抜選手権で全日本王者に挑んだ田中だが…
先月の明治杯全日本選抜選手権は、2回戦で全日本王者の石田智嗣(警視庁)に1-3で敗れ、上位入賞ならなかった。しかし、コンディションを考えるなら、「思っていた以上にできた」という思いがある。
2月のデーブ・シュルツ国際大会(米国)に出場したあと、負傷していたひざの手術に踏み切り、完治したと思ったら他をけがするなどして練習不足。試合時間が1ピリオド2分から3分に変わり、スタミナ面に大きな不安があった。
「練習できていなかった自分を知っていただけに、心配でした。試合では、その心配がもろに出ました」と振り返るが、状況を考えるなら「できることは、すべてできた」という気持ちがあり、この黒星を引きずることはないという。
今年の冬は、手術に踏み切ったことのほか、もうひとつの難題があった。就職だ。3月の卒業式を迎えても就職先が決まらず、1ヶ月間は“フリーター”。4月末に日本オリンピック委員会(JOC)のトップアスリート就職支援活動「アスナビ」を通じて阪神酒販に決まった。生活の基盤が決まらなかったことの競技への影響を問われ、否定も肯定もしなかったが、影響がまったくなかったとは言い切れまい。
■レスリングだけの人生をおくりたくない!
早大の練習に加わり汗を流す田中
かといって、仕事が中心で残業もあり、レスリング活動が二の次、三の次という生活ではオリンピックを目指せるはずもない。レスリング活動に力を入れることができつつ、社会人としての実力を身につけられる環境…。この理想を求め、妥協したくなかったことが就職が遅れた原因だった。
昨年末にアスナビに登録。いくつかの企業と面接し、条件が合わずに断られた企業もあれば、断った企業もある。「頑固ですので、折れたくなかったです」。約4ヶ月間の“アスナビ就職活動”よって決まった阪神酒販では、週2回、営業の勤務をこなす一方、全日本合宿がある時は全期間参加させてくれるなど、レスリング活動を十分にさせてくもらえている。「会社や同僚の応援もあり、最高の環境を得たと思っています」と言う。
新入社員の今年は、もしかしたら仕事を覚えることに、より多くのエネルギーを費やさねばならない可能性もあるだろう。しかし、早大の太田拓弥コーチが、飛躍のかぎを「社会人としての自覚」として挙げたように、人間としての成長は選手としての成長に欠かせない要素。社会人としての基盤の確立は、田中の今後を期待するに十分な材料と言えるだろう。
■世界選手権代表の井上貴尋のもとへ出げいこを計画
ユニバーシアードは、2つの難題をクリアできて臨む大会となった。フリースタイル66kg級は昨年のロンドン・オリンピックで米満達弘が優勝した階級であり、この階級の日本代表に対しては世界の見る目も違ってくるはず。「誇りと覚悟を持ちつつ、また変なプレッシャーを感じずに臨みたい」と言う。
田中(赤)にとって“天敵”となってしまった井上(青)。だからこそ、逃げずに挑んでいく=2011年全日本大学選手権決勝
太田コーチは田中を「リーチが長く、タックルに入るタイミングは最高」と評価する一方、入ってからもたつくことが多く、それが国内大会での常勝を阻んできたと分析する。「そこを克服すれば、一気に世界のトップへ駆け上がりますよ」。
そんな太田コーチの期待にこたえるべく、ユニバーシアードが終わったあとは世界選手権の代表となった井上貴尋(日体大~東京・自由ヶ丘学園高教)のもとへ出向くことも考えている。井上とはキッズ時代から何度も闘った同期だが、高校3年生からの対戦成績は4戦4敗で“天敵”となってしまった相手。だが、だからこそ逃げてはならない。
こうした考えが出てくるのは、気持ちが燃え上がっているからだろう。“闘う社会人”田中に、勝負の夏がやってくる。