※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
1969年世界選手権フリースタイル57kg級チャンピオンで、全日本学生連盟の田中忠道会長(福岡大レスリング部部長)が4月3日、肝不全のため死去されました。68歳。
昨年12月の全日本選手権では、福岡大に採用した長島和幸さんが白血病を再発したことで、マット上から全国のレスリング関係者に支援を呼びかけた。しかし、自身も肝臓の病気と闘っていたことは、多くの人が知らなかった。
福岡大で長年、田中部長をサポートしてきた吉武行寛コーチが、最期の時を寄稿してくれた。
![]() 昨年12月の全日本選手権で長島和幸さんの支援を訴えた田中さん。自身も病魔と闘っていた 元気になるために味がしない食事(薬の影響)を無理して摂り、腹水がたまる関係で水分を控え、ただ回復だけを考え日々を送られていました。そこにはレスリングにおいて一切の妥協をしなかった当時の先生がいました。 亡くなられる数週間前のことです。先生は御家族と私が同席したところで、主治医から「余命数カ月」との宣告と、肝臓移植の選択肢もあるとの説明を受けられました。本来であれば冷静でいられるはずがないと思われる状況のなかで、主治医に冷静に「4月からの授業は、ゼミだけでも持てませんか」と執拗に質問されていました。その光景を見て何と強い人だろうと改めて感心したものです。 翌日、部屋に行くと「肝臓移植はしない。提供者にもリスクがあるのならできない。金もかかるし」と淡々と言われ、「あと2年間は生きたかったな。まあいいか、人より良い人生を送ってきたので悔いはないよ」と、自分で納得するかのように語られた時は、「医者がダメと言っても元気になった人はいくらでもいますよ」との言葉ぐらいしか返すことができませんでした。 その後も普段と変わらぬ日々を送られていましたが、突然、肝性脳症が再発し、その2日後の4月3日午前1時2分に亡くなられました。 主治医は「苦しまれなかったのがせめてもの救いですね」と言いましたが、ぼくの目には、ベットの先生は回復を目指し、苦しく辛くても病と闘っているように映って見えました。言葉や顔には出さないけど大変きつかったと思います。 特に最後の2日間は、唇を噛みしめて最後まで諦めずに闘っていました。亡くなる晩、奥様の手を強く握って、いつまでも離されなかった光景が印象的でした。 |
高校時代にはインターハイでも国体でも上位入賞がなかった。そこから世界王者に輝いた軌跡と、福岡大を西日本学生界の雄に育て、全日本学生連盟の会長に推される人望の厚さを振り返ってみた。(文=樋口郁夫)
福岡・大牟田南高校でレスリングを始めた田中さんは、東京五輪を控えて国中が盛り上がっていた1963年4月、法大へ進んだ。法大は1954年に平田孝さん(のちに1960年ローマ五輪代表)がたった1人の部員で創部し、10年目のチーム。前年の東日本学生リーグ戦では8大学中7位だったが、個人では大塚勇さん(全日本学生連盟前理事長)が学生王者に輝くなど、陽の出の勢いを持っていたチームだ。
法大で田中さんが出会い、後々まで深いつながりを持つことになったのは、現在、木口道場を運営している木口宣昭さんだ。木口さんは重量挙げから大学進学を機にレスリングを始めた選手。同期で同じ階級(バンタム級)だったこともあり、「レスリングを教えてもらった」と言う。
現役時代の田中さん(ご家族提供、時期不明)
田中さんがフリースタイルで、木口さんがグレコローマン。闘うことはなかったが、よきライバルとして切磋琢磨し、2年生の時は木口さんがレスリングのキャリア1年半にして全日本学生選手権で優勝する快挙を達成。田中さんは大いに刺激されたようだ。
木口さんは「競い合いましたね。私は日体大に、田中は日大や明大などに積極的に出げいこに行きました」と振り返る。部員数が少ないこともあって、法大がリーグ戦の優勝争いに加わることはなかったが、個人では時に全日本王者や学生王者、さらには世界王者(1965年の吉田嘉久さん)が誕生しており、選手はかなりの自主性を持って練習していたようだ。
田中さんにとって、世界へ飛躍する大きなチャンスは東京五輪翌年の1965年だった。世界選手権(英国・マンチェスター)の代表選考会決勝で、当時全日本学生選手権で3連覇の福田富昭・現日本協会会長(日大)に勝ち、悲願の世界選手権出場を決めたはずだった。