関西圏の大学と高校の大同団結による実力アップを目指し、2023年に天理大学でスタートした関西オープン合宿。同年は8大学・13高校から約200人の選手が集まった。3年目の昨年は後援の三恵海運に所属するオリンピック金メダリスト(日下尚、清岡幸大郎=当時所属)が講師として参加したこともあり、300人を超える大合宿となった。
今年は2月13~15日、九州の大学にも呼びかけ、オーストラリアからの参加を加えて団体戦の大会「San-Eカップ関西オープン大会」を実施。より大きな規模で実施される。
後半は従来通り関西の高校も加わっての合同練習が予定され、さらに大きな大会・合同合宿へ発展する予定(関連記事)。三恵海運の髙田肇相談役(前社長)の「西日本の大学からオリンピック選手を誕生させる」という悲願へ向けて大きく前進する。
大会会長を務めるのが、三恵海運レスリング班の白石俊次・統括(日体大卒)。高田相談役が大体大2年生のとき、附属の大体大浪商高がインターハイに出場し、その外部コーチとして参加したときに知り合って以来、50年近い付き合いになる。2023年から同社でお世話になり、オリンピック選手輩出を助けた。
今回は関西オープン大会の充実が役目。「西日本のレスリングを盛り立てたいという相談役の気持ちにこたえたい。この大会と合宿が起爆剤となって西日本のレスリングを発展させるのが私の使命です」と燃えている。
同社は、関西オープンのみならず西日本学生レスリング連盟も支援している。「西日本のレスリングを発展させる」という呼びかけに呼応する関係者は多く、運営面でも多くの人が協力し、大会開催に向けて燃えている。
白石統括は大阪府貝塚市出身。高校時代は柔道選手で、学校は違ったが2年上に現在の松浪健四郎・日体大理事長がいて、目標の一人。松浪氏が日体大に進んでレスリングに取り組み、海外遠征に参加する姿を見て、自身も日体大へ進んでからレスリングに取り組んだ。
全日本学生選手権2位などを経て、卒業後、三重国体を目指して同県に教員で就職。1974年全日本選手権2位にまでなり、1976年モントリオール・オリンピック出場も視野に入れていた。
内臓の病気によって、無念の思いで選手活動を断念。その分、指導者として手腕を発揮し、三重県での教員時代には、同県から初めてオリンピック代表に駆け上がった2人の選手(1984年ロサンゼルス大会=斎藤育造、樋口直己)を教えている。
国体のあと故郷・大阪に戻り、高石高校で監督を14年間務めた。その間、現在、プロレスで活躍している秋山準(本名・秋山潤)を教え、専大を経て全日本プロレスへ進んだことで、ジャイアント馬場さんとも交流ができたと言う。当時のプロレス界は、契約書といったものがないことも多く、信義を踏みにじって行動する選手も少なくなかった。「秋山はしっかり筋を通しました」と言う。そういう選手を育てたことは恩師として誇りのひとつだ。
その後、1997年の大阪国体のために創部された吹田高校へ転勤。監督として、大橋理秀(吹田市民教室出身)の史上初のインターハイ1年生王者(1993年)と3連覇(1995年)を実現させた。貝塚南高校へ移ってからもインターハイの上位にまで進む選手を育てたあと、松浪理事長に依頼されて日体大女子部のコーチへ。2014年から2022年まで9年間勤め、世界チャンピに輝いた森川美和(現ALSOK)らを育成。現在の隆盛のベースをつくった。
当時の女子は至学館大の天下で、有望選手はほとんどが同大学へ行く状況。日体大に気持ちを向かせなければならないが、そこで尽力してくれたのが松浪理事長。選手の勧誘交渉のときには、一緒に足を運んでくれたことも多かった。「自身の出身クラブとはいえ、大学のトップがスカウト活動に帯同するケースは、少ないのではないでしょうか」。
日体大が藤波朱理などオリンピックを目指す選手がそろうチームに育ったのは、決して現場のコーチの力だけではできない。上に立つ人間が情熱を注ぎ、動くことの大切さを日体大コーチ時代に経験。それがゆえに、西日本のレスリングを発展させるには、「現場の監督とコーチが頑張ればいい、というものではありません。上に立つ人間が情熱を持ち、環境を整えてやることが必要です」と力説。そのひとつが関西オープンを発展させ、大学の垣根を超えて一致団結することだと主張する。
三重県、大阪府、日体大と、ベースが確立されていないところに確固たる土壌をつくり、選手を育成したことを繰り返してきた。人生最後の挑戦となるかどうかは分からないが、今の目標は、2028年ロサンゼルス・オリンピックで同社から再びチャンピオンを誕生させることであり、いずれ西日本の大学からオリンピック選手を輩出すること。
まず来月の「San-Eカップ関西オープン大会」の成功へ向けて全力を尽くす。