2025.11.13NEW

【特集】約30人の部員の大半が入学後にレスリングを始めた選手!「燃えよ闘魂」の精神で飛躍を目指す名古屋工業高校(上)

(文=樋口郁夫)

 「燃えよ闘魂」の部旗がある2面マットのレスリング場に、「ウエスタンラリアートの要領で投げるんだ」との声が響く。プロレス道場ではない。愛知・名古屋工業高校のレスリング場。30人近い部員の大半が高校入学後にレスリングを始めた選手ながら、昨年の全国高校選抜大会・東海予選で優勝し、全国大会出場を果たした。今秋の国民スポーツ大会では3位入賞者を生んだチーム。

 少子化によって部員不足に悩むチームが多い昨今、素人を中心に毎年30人前後の部員を集めて全国大会に出場するチームは希有な存在だ。ちなみに今年度、県全体の男子高校選手数が30人いっていない県は「21」ある。

▲高校入学後にレスリングを始めた選手を中心に、毎年30人近い部員が在籍する名古屋工業高校レスリング部

 28年にわたって同高を指導している下里勝部長(日体大卒)は、指導のメーンを山中良一監督(国体優勝、アジア選手権3位など)に任せつつ、58歳になった現在も「燃える闘魂」を心の支えに、スパーリングもこなして情熱を燃やしている。

 私立高校だがスポーツ推薦はないので、部員集めはレスリングをやったことのない新入生に声をかけることが中心。「素人を集めて勝てるわけないじゃないか」という声も耳に入ってきたが、「今に見ていろ、という気持ちでした。とにかくがむしゃらにやってきました」と言う。

 「今に見ていろ」という情熱の根源は、人生の師とあおぐアントニオ猪木さんの生き様から学んだもの。レスリングとの出合いは兄が同高でレスリングをやっていたことに始まるが、猪木さんのファンだったことも後押ししてマットに情熱を燃やすことになった。

 多くの人が「不可能」と言ったプロボクシング世界ヘビー級王者のムハマド・アリとの対戦を実現したことをはじめ、猪木さんから生きることに必要な行動と勇気を学び、それを実践してきた。7歳のときに交通事故で父親を亡くし、「本来なら父親から学ぶべき生き方を、4人の兄弟に伝えてくれたのが猪木さんです。兄とは『猪木さんが父親だったよな』と話しています」と言う。

▲レスリング場のほか、トイレにも貼付(右)されている「闘魂」と勇気を鼓舞する言葉

創部69年! 追う立場が長かったが昨秋、東海地区を制覇

 愛知県の男子の高校レスリングと言えば、最近は星城高校が“顔”になっているが(関連記事)、歴史は名古屋工業高校の方が古い。1976(昭和51)年にスタートした星城高に対し、名古屋工高の創部は1956(昭和31)年。星城高が1985(昭和60)年にインターハイ学校対抗戦に初出場を果たし、以後、星城が全国大会の常連として活躍。名古屋工高は追う立場になった。

 東海地区の強豪校と言えば、静岡・飛龍高三重・いなべ総合学園高などがあり、ともに全国大会の上位へしばしば顔を出すチーム。愛知県の闘いを突破しても、東海地区を勝ち抜くことは厳しい道のり。しかし昨年秋の東海予選の学校対抗戦で、初めて両校を破って優勝。下里部長の地道な努力が実りつつある。

▲2面マットのレスリング場は建物の4階。エアコン完備だが、風通しがいいので冷房を入れなくとも快適な練習環境

 同高を卒業してから活躍する選手はいた。「アベアニ」として総合格闘技界で知らない人はいない指導者の阿部裕幸・現AACC代表(拓大卒)は、下里部長が同高3年生のときの1年生。下里部長の教え子としては、グレコローマン55kg級で国体と全日本社会人選手権優勝・全日本選手権2位などの実績を残した平尾清晴(日体大卒)や、前述の山中監督など。山中監督は、オリンピック3度連続出場を果たした高谷惣亮・現拓大監督の全盛期に黒星をつけた唯一の日本選手

 来春にも3選手が大学へ進んでレスリングを続けることになっていて、各選手の成長は楽しみだ。だが、やはり現在のチームを強くしたい気持ちは大きい。山中監督の尽力もあって、その思いが実りつつある。

▲2013年の東京国体決勝。日体大の学生だった山中良一・現監督(青)が前年のロンドン・オリンピック代表の高谷惣亮を46秒で破る大殊勲

4月の朝練習は、2・3年生部員による新入部員獲得

 下里部長は名古屋工高から日体大へ進学。特別な実績は残せなかったが、1学年上に安達巧、1学年下に奥山恵二の1992年バルセロナ・オリンピック代表選手に上り詰めた選手、安達と同期に現在の沖山功・日本協会審判員長、同期に世界4位の藤岡道三らがいた時代。

 加えるなら、2学年上に西口茂樹・前拓大監督、3学年上に伊藤敦・前立命館大監督、4学年上に原喜彦・全国高体連専門部前理事長、6学年上に佐藤満・現専大部長、7学年上に栄和人・前至学館大監督のOB選手が、オリンピックを目指して日体大道場で汗を流していた。そうそうたるメンバーだった。

 卒業後、アパレル会社勤務~日体大大学院~地元・公立高校の非常勤講師を経て、30歳のときに母校に赴任してレスリング部の監督に就任。もっとも正式教員ではなく、正採用となったのは10年後。この間、結婚して2人の子供が生まれ、生活も楽ではなかったようだ。

 それでも、全国レベルのチームをつくる情熱を持ち続けられたのは、「燃える闘魂」の“継承者”ゆえだろう。2023年3月に両国国技館で行われた猪木さんの「お別れの会」には、長兄とともに足を運び、人生を支えてくれた恩を伝えた。

 OBは451人いて、下里部長の28年間の教え子は224人。来春11人が卒業するので230人を超える。この数字もすごいが、今でも全員のフルネームを言えるとのこと。一人ひとりに真剣に向き合ってきた証だ。部員集めに苦労している全国の指導者からすれば、どうやって、毎年10人近くのレスリング未経験者をマットに引き込んでいるのか、知りたいのではないか(同校の1学年の生徒数は約210人)。

▲一人ひとりに丁寧に指導する下里勝部長。「自信をつけて卒業させてやりたい」が指導方針

▲58歳にして連日のスパーリング。ローシングルも仕掛ける!

 「よく聞かれるんですよ」と笑う。特筆すべきことは、2・3年生部員による部員集めだろう。4月は新入部員の勧誘・獲得が“朝練習”になる。校門や下足置場に立って、ひとり一人に声をかけて入部を勧める。何人かがレスリング場に来てくれるので、やらせてみる。体験であり、他クラブとの取り合いにもなるので、来たから必ず入ってくれるわけではないが、何もしなければ入部する生徒はいない。

「他人と比べるのではない。過去の自分と今の自分を比べること」

 下里部長は「自分が呼びかけても入部につながらない生徒でも、生徒から誘われれば気持ちが傾くケースがあります」と、その効果を説明する。2・3年生部員には、レスリングの魅力や自身の情熱を新入生徒にぶつけることを要望する。練習のあとにチームでミーティングをし、「○○はプロレスファンだ」「○○はラグビーへ行く可能性が強いな」など情報を交換。翌日、それを聞いた他の部員が声をかけることで、その生徒は「自分に注目してくれているんだ」という気持ちになり、入部へ傾くと言う。

 いったんマットに上げたあとは、レスリングを好きになってくれる練習をする。そうしたやり方を続け、コンスタントに30人近い部員を集めてきた。

 その後にも苦労はある。昭和時代なら一斉スタートだが、今はキッズ出身選手が多く、3年生の夏までの2年数ヶ月では、全国大会どころか地区大会、県大会でも優勝するのは厳しい状況。しかし下里部長は、「素人がチャンピオンになる夢を持ってはいけないのか? そんなことはない」と、勝つ目標を放棄するつもりはない。

▲山中良一監督による技術指導

 一方、「他人と比べるのではない。過去の自分と今の自分を比べること」を指導の中心として教えている。勝てなくても、実力差が縮まったなら自信を持てばいい。「(キッズ出身選手とは)キャリアが違うだけ。情熱で負けていなければ、試合に負けても悲観することはない」と語気を強めた。

 中学までに成功体験のない部員であっても、「卒業までに自信を持たせてやりたいんです。実力差が接近すれば、それは成功。自信をもって、その後を生きられるような指導をしていきたい」と言う。

《続く》