(文・撮影=布施鋼治)
レスリングでケガを負い長期入院。担当医からは車椅子での生活も覚悟しなければならないと指摘されながら、不屈の闘志でそれを回避した人がいる。東京・桜新町で「たかはし接骨院」を切り盛りするかたわら、三恵海運レスリング班でトレーナーを務める高橋秀樹さん(66歳)だ。
先日開催された2025年全国社会人オープン選手権では、アミンとケイワンの吉田兄弟のケアに専念していた。
それにしても、なぜ三恵海運でトレーナーを?
「高校時代の2つ上の先輩が髙田肇社長(現相談役)だったんですよ」
高校に入ったら、それまでやったことのないスポーツをやろうと心に決めていた。有言実行で、兵庫県神戸市の育英高校に入学すると、レスリング部に入部した。
「先輩はたったひとり。3年生に髙田さんがいるだけでした」
幸い、高橋さんの入学と同時に日体大でレスリングをやっていた新卒の体育教師が着任。部員2名、指導者1名という少数精鋭のレスリング部として活動するようになった。
「いつも3人で練習していました。レスリングをやることは楽しかったけど、辛くもあった。雑用は全部年下である自分に回ってくるわけですからね(苦笑)。しかも、人数が少ない分、練習では休む間もなかった」
そうした環境が高橋さんを強くしたのだろう。近畿高校大会で優勝し、インターハイではベスト8に進出した。卒業後は推薦で日体大に進学する。「将来はオリンピック代表を目指そう」という大志を抱いての学生生活だったが、アクシデントに見舞われる。
「2年生の後半にちょっと背中に痛みがあった。周りに置いていかれたくなかったので、休まずに練習していたら、動けなくなってしまったんですよ」
診断の結果、脊髄に神経が癒着していることが判明。1年に及ぶ長期入院を余儀なくされた。「ベッドで横になって天井を向いたまま、最初の半年間を過ごしていました」。担当医からは「70%の確率で車椅子での生活になる。そういう人生を踏まえることができたら手術しましょう」と宣告された。
レスリングの道は断念し、車椅子での生活を想定せざるをえなかった。「お医者さんが70%と言っているということは、ほぼ決まりだと思いましたね」
そうした矢先、高橋さんは車椅子に乗りながらパスケットボールをやっている人を見かけた。他人事ではない。調べてみると、何らかのハンディを負ったアスリートのためにパラリンピックという競技大会が開催されていることを知った。
レスリングはパラリンピックの種目として昔もいまも採用されていない。「これからはオリンピックではなく、バスケットボールでパラリンピックを目指そう」 ベットのまわりを車椅子で回っているうちに、高橋さんにはもうひとつの考えが頭をもたげた。「ケガを抱えた選手のサポートはできないのか」と考えるようになったのだ。
その答えは柔道整復師だった。手術は3回目で成功した。「日本で初めてスポーツ整形外科を作った病院に入院したのも良かった。執刀医は神経を傷つけることなく、癒着した部分をはがしてくれたのでしょう」
もう車椅子を使う必要はなくなったので、高橋さんは柔道整復師の道を選択した。幸い日体大にその資格をとる機関があったので、地元神戸の学校で教壇に立つ話を固辞し、その資格をとった。その後、都内の接骨院や骨接ぎで研さんを積み、1989(平成元)年に母校・日体大世田谷校舎のお膝元である桜新町で開業した。
レスリングは過去の物語になるはずだった。そんな高橋さんが再びレスリングと関わるようになったのは、三恵海運の髙田社長が同社にレスリング班を作り、「ウチでトレーナーをやってくれないか?」と声をかけたことがきっかけだった。
話をして、すぐ高校時代の先輩・後輩の関係に戻った。断る理由はなく、2014年から三恵海運に所属する選手たちをサポートするようになった。「基本的に私は縁の下で選手たちを支える立場にいる。頼っていただけるようにやることが私の仕事です」が信条。
体力と気力が許す限り、これからも高橋さんは縁の下の力持ちに撤するつもりだ。