(文=樋口郁夫)
新日本プロレスを引退し、しばらく表舞台に出ていなかった1992年バルセロナ・オリンピック代表の中西学さん(専大OB)が、再びメディアの前に出るようになった(you tube動画 / 関連記事)。彼とは、私が通信社勤務時代の1988年12月、アジア選手権(パキスタン)を自費取材したときからの知り合いだ。
中西選手は、1988年ソウル・オリンピックに向けて約2年半、代々木の青少年総合センターで行った「500日合宿」(いろんな所属の選手が恒常的に寝泊まりし、練習をやっていた)に入っていた若手メンバー。記者としてときに合宿所を訪れていた私を認識していたようだが、日本代表ではなかったので、私の方は意識の外にいた選手。パキスタンに行ったころ、初めて顔と名前が一致した。
パキスタンでの試合では、ガチガチになって結果を出せなかった。マットを下りたところでは、日本行きのビザほしさに、「友達」と言ってチームに言い寄ってきたパキスタン人に私を含めてだまされそうになり、放っておけばいいのに、それで悩む姿にも接した。巨体に似合わず(よくある、か?)繊細な神経の持ち主なんだな、という印象だった。
その中西選手から、“記事の差し止め”を強く要望されたことがある。自分のことの記事ではない。ある若い選手の将来を考え、「今は脚光を浴びせる時期ではないでしょ」と熱く訴えてきた。
「ジャーナリスト」と呼ばれる人間、あるいは自認する人間にとって、嫌なことのひとつが言論の弾圧や統制、すなわち「言論の自由」への介入だ。納得できる理由なら取り下げるが、そうでない理由で取材や記事をストップされ、「上からの命令だから」とすんなり受け入れる人間は、「ジャーナリスト」とは言えない。
このときも最初は受け入れがたい理由だったし、上司でもない中西選手からの要望を聞く筋合いはなかった。だが、中西選手の熱い気持ちの前に「特ダネ」を捨てた。他人、しかも高校や大学の後輩でもなく、袖がふれあった程度の選手のために、あそこまで熱くなって年上の記者にかみついてきた中西選手の行動が思い出される。
社会には、自分の出世や功名心のため、他人(特に年下)につらく当たり、人と争う人間は多い。レスリング界も例外ではなく、地位や肩書に固執する人間は当たりまえのようにいた。一方、自分のためではなく、選手のため、そしてレスリングの発展のため、熱くなる人間が多いことも確かだ。
レスリングの発展・メジャー化に必要なものは、自分の利益ではなく、選手のために、そしてレスリングの発展のために行動する熱さだ。あのときの中西選手を振り返させてほしい。
1992年バルセロナ・オリンピックを約半年後に控えた同年2月のこと。金メダル候補の佐藤満選手(現専大部長)ほか、日体大と山梨学院大の有力選手が米国のペンシルベニア州立大(ペンステート)へ遠征して練習。その後、「ミシガン・オープン大会」に出場した。協会機関誌「月刊レスリング」の取材で私も日本からミシガン州カラマズーへ向かった。
佐藤選手は負傷で不出場となり、当てが外れたが、安達巧選手が優勝し、話し好き・取材好きの原喜彦選手(全国高体連レスリング専門部・前理事長)のおかげで埋め合わせることができた。
他に、東京・京北高を卒業し、ペンステートに進んだ57kg級の阿部三子郎選手が日本チームとともにミシガンに来て大会に参加。バルセロナ大会の第1次国内予選1位の奥山恵二選手(現東京・自由ヶ丘学園高部長)を9-8で破る大殊勲。ペンステートで練習を積んでいた中西学選手(当時新日本プロレス職員)も、試合には出なかったものの会場に来ていた。
阿部選手が全国高校選抜大会で優勝し、日本人として20数年ぶりに米国大学レスリングへ挑んだことは知っていたが、全日本レベルで通用するほどとは思わなかった。それが、オリンピック日本代表候補の奥山選手を破ったことは驚嘆の出来事。金メダリスト候補欠場の穴を十分に埋められるニュースバリューだ(予選が進行していたので、バルセロナ代表になることはありえなかった)。
彼から生い立ちや米国へ来た理由、将来の夢などを聞いた。ひと通り取材が終わると、不思議そうな顔で「これ、記事になるんですか?」と聞いてきた。「アメリカに秘密兵器がいた、といった感じで、デカデカと書くよ。アトランタの星とか」などと答えると、「そんな~! まだ何もやってない(成績がない)んですよ」と返してきた。
照れなくてもいいだろ、くらいの気持ちで受け流し、どんな感じで記事を作ろうか、などと考えた。プロ野球のスカウトが、他球団のスカウトが発掘していない逸材を見つけたのは、こんな感じなのだと思う。私の心は、かなり躍動していた。
その日の夜、ホテル(日本チームと同じ)の部屋で休んでいると、中西選手が訪ねてきた(今なら記事執筆の時間ですね。インターネットのない時代は取材終了=仕事終了でした)。たわいもない世間話のあと、おもむろに「三子郎から聞いたんですけど、三子郎のこと、記事にするんですか?」と切り出してきた。「書くよ。佐藤君が出なかったし、代わりの記事を見つけたよ」などと答えると、「早すぎるんじゃないですか?」と返ってきた。
33年以上も前のことだから、断片的にしか覚えていないが、中西選手の言い分は、
「彼はペンステートの1年生で、(正式の試合に出られない)レッドシャーツの選手なんです。まだ実績は何もないんです」
「記事になれば、三子郎の親は喜ぶでしょう。でも、今は苦労させる時期。大きな記事になっても、三子郎の成長にはつながらないと思います」
「三子郎は、ペンステートの大石八郎コーチ=日体大OB、この大会には来ていなかった=が手塩にかけて育てようとしている選手なんです。大石コーチの意向も聞かず、大きく記事にするのは、どうなんですかね」
「この段階で大きく扱われると、いい気になってしまって成長が止まる可能性がありますよ」
などだった。
最後の理由に対して、私は「それで思い上がって成長が止まる選手なら、それだけの選手ということだろ」と返した記憶がある。日体大の藤本英男・元監督や富山英明・現日本協会会長が、よく「○○でダメになるような選手なら、所詮、その程度の選手ということなんだ」というフレーズを使っていて、その口ぐせが移った形。オリンピック2連覇の小幡洋次郎さんからは「勝ち続ける選手は、周囲には絶対に流されない」と聞いてもいた。
私の反論に対し、中西選手は「樋口さんは、書かれる立場になったことがないから、分からないんです」と語気を強め、「思い上がってはいけない、と自分に言い聞かせるんですけど、周囲におだてられると、どうしても挑戦していたときの気持ちになれないんです」と続けてきた。
中西選手は、学生王者を経て和歌山県庁にレスリングに専念できる境遇で就職し、1989年に全日本選手権で初優勝した。職場には、レスリングで自分に厳しく接する人間はいない。つまり“王様”だ。どんなに自覚しても、心にすきが生じるのだろう。
それを避けるため、新日本プロレスへ職員として転職し、レスリング・チームの馳浩監督(専大OB=現石川県知事)の厳しい指導の元へ活路を求めた(中西選手より半年早くプロレス入りした永田裕志選手によると、馳浩ほど入団前と後とで対応、すなわち厳しさが変わった人間はいなかったとか。釣った魚に餌はやらない、そのものだったのでしょう^^; 厳しい指導者だ!)。
私も簡単に引き下がるわけにはいかなかった。せっかく発掘した逸材である。だが、最後は中西選手の熱意に負け、記事を書かないことにした。ライバル媒体がなかったこともあるが、それ以上に中西選手の熱意に負けたからである。パキスタンで感じた繊細な中西選手ではなかった。新日本プロレスでの厳しい試練が、彼を大きく変えた。
阿部選手はその後、1995年に日本代表としてアジア選手権(フィリピン)に出場して優勝(このときは、「秘密兵器、マニラで輝く」とのタイトルで「月刊レスリング」の表紙に取り上げた)、1996年全米大学(NCAA)選手権で日本人として25年ぶりに優勝。直後のアジア選手権(オリンピック予選)を勝ち抜き、アトランタ・オリンピックに出場した。
アトランタのマットで闘う阿部選手を見て、私は心の中で「中西、ありがとう」とつぶやいた。私が“早すぎる記事”を書いたなら、阿部選手のこの姿はなかったかもしれない。

▲プロデビューして1週間後、首都圏(千葉・幕張メッセ)に初見参した中西。だが馳浩&佐々木健介(左)にボロぞうきんのように叩きのめされるプロの洗礼。観戦していたオリンピックのチームメート、鈴木賢一(現大東大監督)が「ボクは絶対にプロレスには行きません」と青ざめるほど、壮絶にどん底へ突き落とされたが、そこからはい上がり、IWGP王者に輝いた
時代は変わり、アマチュアスポーツを取り巻く環境(例えばメディアの扱い)も変わっていて、選手の気質も昔とは違う。今は、記事にされることで、思い上がりではなく、エネルギーにする選手の方が多いような気がする。ある大会で優勝し、「特集で扱ってください」と直訴してきた選手もいる(その選手は、見事に世界チャンピオンになりました^^)。あのときの中西選手の思いやりは不要な時代なのかもしれない。
だが、他人のために熱くなる人間の存在をなくしてはならない。レスリングの発展に必要なひとつは、自分の出世や名誉のためではなく、選手のために、そしてレスリングのために熱くなれる人間の存在だ。
レスリングのために熱くなる人間の力を結集させよう! レスリングが、世界のメジャースポーツになるために。
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