※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
1週間で3000人の原動力となったおかやま山陽高校レスリング部員
横山監督は、高校時代は陸上競技でインターハイに出場、日体大へ進んでからレスリングをスタート。同期には1984年ロサンゼルス五輪代表の安藤正哉さんがいて、女子の栄和人強化委員長は1学年下、男子の佐藤満強化委員長は2年下の後輩だ。
キッズ・レスリング全盛の現在ほどではないにしても、当時でも大学からのスタートではキャリア的なハンディがあった。しかし日体大には高校時代に他のスポーツをやっていながら、マット上で大成した選手も少なからずいた。横山さんもその一人。右ひざの大けがをして2年間のブランクがあったにもかかわらず、大学を卒業して最終的にグレコローマン62kg級で全日本4位までに成長した。審判としても、1980年代に国際資格を取得。アジア選手権で審判をやったこともある。
■選手時代、身近にいた“目標を奪われた選手”
大学3年生の時にモスクワ五輪ボイコットがあった。「日本には世界の名選手が何人もいた。その中には、高田先輩(裕司=現日本協会専務理事)らと同じレスリング部第2合宿所で寝食を共にしていた先輩も多数いた。しかし、大会には参加できなかった。できなかったのではなく、許されなかったのです」。目標が急になくなった選手の気持ちは手に取るように分かる。
3000人分の署名。厚さ約3センチ
3000人という署名は、レスリングのつながりだけではない。自宅の道場で鴨方町レスリングスポーツ少年団の代表としてキッズ選手の育成に力を入れてきたが、実は3年前までの約20年間、高校では陸上競技部の顧問で、高校のレスリング界に身を置いていなかった。
陸上競技部の顧問の際は、インターハイには毎年のように出場しており、山梨学院大の主将として箱根駅伝を3度走った清田選手や、環太平洋大で主将を務め、全日本学生個人選手権の1500mで優勝した監物選手等を輩出している。また、その頃には日体大長距離記録会にも出場しており、レスリング道場を訪ね、藤本英男先生の「頑張らにゃいかんよ!」と言う声を聴きに行ったそうだ。
今回は陸上とレスリングのつてをフルに使っての速攻。「レスリングに復帰して3年の監督でも、これだけのことができます。3000人を集める人が33人いれば、10万人です。みんなが協力すれば、10万人なんてあっという間です」と話す横山監督は、今回の4000人分のあと、来月には新たな3000人分を送る予定という。