2025.07.10

【特集】世界王者を生んだ地に高校レスリング部が誕生!島根県レスリング界の活性化を目指す大東高校(上)

▲今年のインターハイ開催地、島根県雲南市でスタートした大東高校レスリング部。前列右端が渡部誠監督、後列左端が嘉戸洋コーチ、右端が原恵介コーチ

 今年のインターハイ(7月27~30日)の開催地は島根県雲南市。失礼ながら、全国のレスリング関係者にとってはあまり馴染みのない市であろう。今年3月までレスリング部のある高校はなく、全国大会でその名の入ったシングレットを見ることはなかった。

 日本海から内陸に入った地にあり、人口は約3万5,000人。面積からすれば決して多くはなく(1平方kmあたりの人口数を示す人口密度は54.3人=松江市は342人、東京都は6,444人)、街を通るJR木次線は日本屈指の赤字路線。過疎化を防ぐのに必死の地方都市だ。ここから「レスリングの世界チャンピオンが生まれた」と聞けば、多くの関係者が目を丸くするのではないか。

 昨年の世界選手権・男子フリースタイル61kg級を制した小野正之助(当時山梨学院大)が、この地にある加茂B&Gクラブ出身。練習場のスペースもままならない状況で練習を積み、全国少年少女大会で5連覇を達成。その後の活躍は説明を要しまい。

 ただ、同地および島根県に全国トップレベルの高校がないこともあり、中学から佐賀・鳥栖へ移り世界を見据えた。「島根県出身」と聞いてピンと来ない人が多いのは、そのため。小野だけではなく、同期で全国優勝の経験もある鳥目裕太も鳥取・鳥取中央育英高を経て現在は神奈川大で活躍。多くの有望選手が県外へ流れていった。地元のレスリング関係者にとって、何とももどかしい状況だったことだろう。

世界2位&アトランタ・オリンピック代表がコーチへ

 インターハイ開催を機に、その雲南市にある大東高校にレスリング部がスタートすることになった。同高の澤谷隆成教諭(島根・隠岐島前高~国士舘大OB)が「中学を卒業しても『地元の島根で、地元の雲南市で、レスリングを続けたい!』という選手を出そう。インターハイが終わったあともレスリングを根付かせよう」と一念発起して創部。

 同教諭の国士舘大時代の先輩で、環太平洋大にレスリング部がなくなってその指導力が宙に浮いていた嘉戸洋氏(1995年世界2位・1996年アトランタ・オリンピック7位=島根・川本高卒)が雲南市教育委員会に転職。コーチとして指導を受け持つことになった。創部の立役者の澤谷氏は、インターハイ開催本部で働くため顧問へ。監督は地元で自営業を営む渡部誠氏(島根・松江工高~徳山大=現周南公立大=卒)が引き受けたが、連日の練習参加は厳しい状況。教育委員会スポーツ振興担当次長として時間の融通もきく嘉戸コーチが主に指導を受け持っている。

▲世界トップレベルの技術を指導する嘉戸洋コーチ

 部員は5人。学校の中に常設練習場はなく、ときに約7km離れた加茂B&Gクラブの練習場(海洋センターの中にあり、常設マットが設置されている)で汗を流す。備品もそろわず、予算も少ないので、備品や遠征費のためクラウドファンディングで集めた資金は203万5,000円。多くの人の支援を受けてスタートした。

 さすがに今年のインターハイ予選・学校対抗戦では隠岐島前高と松江工高の壁を破ることはできなかったが、個人対抗戦では2人が優勝し、2位(地元開催枠)が1人と、3選手の地元インターハイ出場が決まった。

「レスリングに生かされた人間として、最後はレスリングに貢献したい」

 嘉戸コーチは「全力で指導にあたりたい」と張り切っている。環太平洋大の方針でレスリング部がなくなったときは、「これも人生」と割り切った気持ちもあったようだが、離れて時間が経つにつれ、「レスリングに貢献できる環境がいい」という気持ちが大きくなっていった。元々、故郷の島根県に貢献できることがしたかったこともあり、インターハイと国民スポーツ大会へ向けて指導者を求めてる雲南市の思いと一致。「いいタイミングだったと思いますね」と言う。

▲1995年世界選手権で銀メダルを獲得した嘉戸洋コーチ

 大学は途中退職。定年は65歳なので、あと10年は在職することができた。途中退職というのは退職金や年金など金銭的にはマイナスになるが、「もったいない」という気持ちはない。「レスリングに生かされた人間として、最後はレスリングに貢献したい、という気持ちでした。それが自分の生き方。何が生きがいか、ということを考えると、自分にとって一番の道を選んだと思います」ときっぱり。

 全日本チームのコーチとして12年間、多くの国際大会に同行した指導者として、初心者を教える環境に物足りなさは感じないのか? この問いに「全くないです」と即答。それはやり終えたステージであり、教え子の中から世界へ飛躍する選手が出ても、一緒に行ってセコンドからアドバイスを送りたいという気持ちもない。今、心にあるのは、「島根の子供達の育成、レスリングやスポーツだけではなく、教育的な部分も含めて指導し、立派な人間に育てたい、という気持ちです」と言う。

2030年国民スポーツ大会へ向けて5年計画での強化

 したがって、この4月から接している選手に求めるのは、レスリングの成績は言うまでもないが、「将来、社会に貢献できる人間になってほしい」という思い。卒業後もレスリングを続けてほしい気持ちが強いので、レスリングを嫌いにすることのないよう、練習中に笑い声も出るような雰囲気の中で、楽しくレスリングをすることを心がけている。

 技術的には、どうか? 全日本チーム入りする選手ならベースができているので、手とり足とり教える必要はなく、「技を盗め、考えろ」という指導もありだが、初心者相手なら、そうはいかない。だが、同コーチは「指導の基本は変わりません」と言う。確かに、日本代表選手には高度な技術も教えるが、ローリングの極め方、相手との読み合いなど基本的なことも教えてきた。「全日本チームで教えてきたことの半分は、今、教えています」と言う。

▲渡部誠監督が押さえ込まれると、選手がそばに行って「フォール!」。なごやかなムードで練習が行われている

▲嘉戸コーチから指導されたツー・オン・ワンの腕とりを試す選手

 同市は2030年に島根県で開催される国民スポーツ大会でもレスリング競技が実施される。インターハイへ向けての強化が、そのまま引き継がれるわけで、インターハイでの好成績を目指す一方、5年のスパンで選手の発掘と強化に取り組める。世界トップレベルの技術指導が生かされるのはこれからだろう。

 もちろん、大東高校だけではなく、島根県レスリングの発展も願っているとのこと。離島の隠岐島前高校とは交通の問題で簡単に交流できないが、松江工業高校とは合同練習もやって切磋琢磨したいという。車で1時間くらいの場所に広島・三次高校もあり、近隣の県にも出げいこを求める。

 県協会の高村行雄会長は、現役時代からお世話になっている恩人。今年3月、パリ・オリンピック金メダリスト(日下尚、清岡幸大郎)を隠岐島に招待して教室を開くなど、県レスリングの発展に尽力しているだけに、その思いに協力したい気持ちも強い。

《下へ続く》