※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=樋口郁夫)
テレビやインターネットで次から次へと情報が入ってくる現代。3ヶ月前の大会の優勝者すら記憶に残っていないこともある。東日本学生秋季新人選手権のフリースタイル55kg級で優勝した「山崎達哉(日体大)=右写真」の名前を聞いて、「ああ、あの選手」とピンと来る人は、よほどのレスリング通と言えるだろう。
東京・自由ヶ丘学園高時代の2009年の奈良インターハイ50kg級で、1階級上の高橋侑希(三重・いなべ総合学園高=現山梨学院大)とともに史上4、5人目の1年生王者に輝いた選手。翌年も勝って2連覇を達成し、2011年大会で3連覇が期待された逸材だ。
意外なことに、「優勝」の経験は2度目のインターハイ王者となった2010年8月以来で、約2年4ヶ月ぶり。「うれしいです。(進学後は)60kg級でやってきたのですが、55kg級に戻し、減量もうまくいきましたので…」と、自信めいたものはあったようだ。「すごく動けました。自分の階級はこの階級です」と、模索していた方向性が見つかった。
■体の成長で迷いが生じ、レスリングをやめる気持ちへ
2010年の沖縄インターハイで優勝したあと、10月の千葉国体は決勝で不覚。翌年3月の全国高校選抜大会は東日本大震災で中止。この頃から体重が増え、最後のインターハイは体重が落ちずに東京都予選を棄権。10月の国体は60kg級に出場したが2位に終わって高校生活を終えた。
2009年に1年生インターハイ王者に輝いた山崎(左)と高橋
もっとも、高校3年生の夏の山崎の気持ちを知っている人なら、いま日体大でレスリングをやっていることが信じられないだろう。
最後のインターハイに臨むにあたり、体重が増えていたので50kg級での出場はかなり厳しいことが予想された。しかし1階級上には高橋がいて、その時点では高橋に勝つだけの自信はなかった。
長い目で見れば、シニアに50kg級はないのだし、負けてもいいから55kg級へ上げるべきだっただろう。「インターハイ3連覇」という記録があったため、減量に挑んで同級での出場を決意。しかし体の成長は予想以上で、都予選は体重計に乗ることなく棄権。「気持ちの面で、途中であきらめてしまいました」。
エリート街道を歩んできた逸材が直面した挫折。「インターハイは見たくなかったです」。出場が決まっていた国体だけは出たものの、「もうレスリングはやりたくなかった」と、国体を“引退試合”と決めていた。
■東京・自由ヶ丘学園高の先輩の熱意で、再びマットへ
決勝で果敢にタックルを仕掛ける山崎(青)
田野倉は「1、2年生でインターハイを制した選手がレスリングをやめるのはもったいないと思いました。何も人生を考えていないで『やめる』と言っていたようだったし。高校の後輩だし、レスリングを続けてほしかった」と振り返る。「説得した」という意識はない。「おまえと一緒にレスリングがやりたいんだとか、思っていたことを勢いで伝えただけです」と言う。
人の気持ちを変えるのは理論ではない。どんなにすばらしい理論を展開しても、熱い思いがなければ決意を変えるには至らない。「最後は、『ここまで言っても(気持ちが)変わらないのなら仕方ないや』くらいの気持ちでした」という思いが伝わり、再起の道を歩むことになった。
■直近の目標、森下史崇に迫れるか?
全国から名だたる強豪が集まる日体大では、2年前の実績など役に立たない。入学後は、「遅れないように、周囲に迷惑をかけないように、という気持ちでした」。だが、気持ちは徐々に盛り上がっていった。高校の時は部員が5~6人しかいなかったが、80選手がひしめく日体大ではいろんな選手と練習ができたことと、上を目指す意識の高い選手が多いので、「精神的に鍛えられました」と、新天地での8ヶ月間を振り返る。
決勝の第2ピリオド、フォールの体勢は惜しくも時間切れ
「やっと2人の背中が見えた?」の問いに、「まだまだです」と苦笑いを浮かべ、「全日本選手権で高橋と闘うことになったら?」の問いには、「少しでも相手になれるよう頑張ります」。
謙そんもあるのだろうが、大言壮語をしない山崎に対し、田野倉は「今は森下(史崇)が日体大のフリースタイルの55kg級を背負っていますが、その次は達哉でしょう」と期待。「全日本選手権で森下と闘うことになったら?」と聞くと、「やってみないと分かりませんよ」と、「その次」どころか勝利を期待するコメントが返ってきた。
自由ヶ丘学園高~日体大の先輩後輩の“タッグチーム”が、相乗効果によって実力を伸ばし、リオデジャネイロ五輪のマットに立つことがあっても、何らおかしくはない-。