※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
《No.1》 《No.2》 《No.3》 / 《No.4から続く》
国籍を変更してオリンピック予選に出場する“日本人”第1号になった増田奈千。2月6~7日のオセアニア選手権(グアム=この大会に出ないと、大陸予選には出場できない)のあと、3月22~24日のアフリカ・オセアニア予選(エジプト)に挑む。その間に日本で練習させてもらうことも考えているが、大会出場の遠征経費はすべて自費なので、思案中とのこと。
世界レスリング連盟(UWW)のライセンスの国籍変更で、UWWに5,000スイスフラン(約81万8,000円)の変更料を支払う必要があり、これも増田の負担になる。簡単に帰国もできないのが現状だ。クラウドファンディングで資金を集めることも視野に入れている。
ジェシカのように40歳を超えてもできるのがレスリング。東京オリンピックでも、39歳のブルマー・オチルバト(モンゴル)がアジア予選を勝ち抜いて出場している。はっきり書けば、アフリカ・オセアニア大陸予選は、他の大陸より競技レベルが低く、日本で鍛えた実力を発揮すれば、年齢にかかわらず2024年パリ・オリンピック以降の大会の予選でも2位に入る可能性はあると言える。
だが、現実問題としてパリ・オリンピックが(現段階では)最初で最後の挑戦と考えている。そのあとの夢は、オーストラリアにレスリングを普及させ、2032年に開催が決まっているブリスベンでのオリンピックに教え子を出場させること。
女子の世界的普及により、ある程度の選手はいるが、レベル的にはまだまだ。何よりも、オーストラリアの国民性が日本と違うので、その闘いは福田富昭が日本で女子を「0」から立ち上げた以上の困難を伴うのではないか。
増田には、日本とは国民性の違うオーストラリアでの指導について、ひとつの考えが固まっている。それは「怒らないこと」。性格的に、怒ったり声を荒らげたりすることができず、大阪府警をやめて堺女子高校の非常勤講師をしながら指導に携わったときも、怒ったことはなかった。
指導者として「どうなのかな?」と思ったこともある。しかし、バレーボールの元日本代表メンバーで世界選手権やワールドカップで活躍した益子直美さん(現日本バレーボール協会理事)が「怒らないバレーボール大会」を提唱し、実践していることを知り、「その考え方、大賛成です」と言う。
益子さんは中学や高校時代から華々しい脚光を浴びた選手だが、その裏では監督に怒られることが常で、「バレーボールをやめることしか考えていなかった」という毎日を送っていた。東京・共栄学園高時代、チームが全国2位になって、表彰台では「みんなが暗い顔をしていた」が、それは優勝できなかった悔しさからではない。監督の雷が怖かったからだと言う。
増田も、そうした一面があったことは否定しない。もちろん、大会で優勝して、その喜びがやめることを引き留めた。キッズ時代は強豪チームの中で男子選手と数多くの練習をしていたので、大会では他チームの男子選手に勝つことも多く、「カッコいいやん」と思って、それが続けるモチベーションにもなったことは確か。
一方で、優勝することが多かったので、「負けたら怒られる、怒られたくないから練習する、という日々だったと」振り返る。レスリングが「好き」「ずっと続けたい」という気持ちにはならなかった。それがゆえに、益子さんの取り組んでいる「怒らないバレーボール」は、「大賛成です」と言う。
益子さんは「高校を卒業して社会人になったら、いきなり怒られなくなりました。でも、(高校時代は)監督から『あれをしろ』『こういうプレーをしろ』と与えられた通りにしかやってこなかったので、社会人になって『自主性を持ってやれ』と言われても、どうしていいか分からなかったんです。何も残っていない自分に絶望して、どうすれば自主性や主体性が身に付くのかと苦しみました。気づいたら、せっかく青春を捧げてきたバレーボールが大嫌いになっていたんです」とも言っている(「パラスポWeb」)。
増田も自身の経験から、指導者に怒られないようなレスリングを続けてしまうと、ある一定レベルまでは強くなるだろうけれど、「トップレベルまでいくと、それは通用しなくなると思っています」と言う。
それ以前に、オーストラリアは選手数が少ないので、まずレスリングを続けてもらうことが大事。それには、「楽しい、好き」と思ってもらうことが一番と思っている。「好きこそ物の上手なれ、という言葉はほんとにその通りだと感じます」と話し、好きにさせることを主眼に置き、キッズ選手には、友達感覚で親しみを感じてもらうように接している。
一方で、「優しく教えるだけで、自分は試合に負け続けでは、選手はついてきませんよね」とも話し、指導者にとって実績は大きな要素であり、必要なこととも考えている。今のキッズ選手がオリンピックを目指す年齢になったとき、自身は現役を続けていないだろうから、よけいパリ・オリンピック出場の実績がほしい。
増田にとってパリ・オリンピック出場は、オーストラリアでのレスリング普及を目指すためにも絶対に必要なこと。もちろん、達成できなくとも、それは「失敗」ではない。新たな夢へ挑戦するエネルギーにほかならない。
父・周司さんは「楽しみというより、ドキドキです」と、一度は完全にあきらめた愛娘のオリンピック挑戦への気持ちを話す。「日本の選手がすごい闘いを勝ち抜いてオリンピックへ出るのに、軽い気持ちで挑戦していいのかな、なんて思うときもあります」と言うが、国籍を変えてまでの挑戦が「軽い気持ち」であろうはずはない。
スポーツの根本は「挑む」ことであり、この言葉に批判もあるが「楽しむ」こと。悲壮感を持つことが絶対必要条件ではない。周司さんは「好きでやるのなら、それもいいでしょう」とも言う。親がどうこう言う年齢ではないので、遠くから応援するだけになりそうだが、「8月のパリは(宿泊代や食事代が)高いみたいですね…」と調べているのだから、この春は気が気でない日を送ることになりそうだ。
米国の心理学者ミハイ・チクセントミハイは、人が真に幸福を感じるのは、物質的に満ち足りた状況ではなく、「逆境に挑むときであり、困難に挑むときだ」と主張している。
挑戦は、人生に必要なこと。挑戦は、いつも美しい。“異国”で、真の幸福を求めて奮闘する増田奈千の挑戦が期待される。《完》
※現地での写真は本人提供です