※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
キッズ最強の吹田市民教室でキャプテンも務めた増田奈千だが、オリンピックへのあこがれがあったわけではなく、愛知・中京女大付属高校からのスカウトも、同期の登坂絵莉の誘いも断って親元から通える堺女子高校(現香ヶ丘リベルテ高校)へ進んだ。
そこでは、同学年で増田以上にエリートの道を歩んでいた村田夏南子(JOCエリートアカデミー=現プロ格闘家)を「追い上げる一番手」と書かれたこともある。その記事(クリック)を見せられると、「地元での試合でしたしね」と、何とも言えない表情で照れ笑い。「結局、中学、高校では一度も全国チャンピオンになれていないんです(JOCジュニアオリンピックなどは除く)」と振り返り、好成績は吹田市民教室時代の「貯金」だったと言う。
環太平洋大へ進み、全日本の舞台に出るようになってからは、どうだったのか? 2013年ジュニアクイーンズカップで優勝し(関連記事)、同年の明治杯全日本選抜選手権59kg級では、準決勝で優勝した伊藤彩香(至学館大)に3-4で惜敗しての3位。これが“日本一”に最も近い大会だったかもしれない。2014年に階級区分が変わって60kg級、さらに58kg級で闘ったが、伊調馨の盤石の強さと川井梨紗子の台頭があって、世界への道は遠のいた。
伊調馨へ挑む選手の一人として持ち上げられてはいたが、「伊調さんがいる限り、オリンピックなんて行けるわけがない」という気持ちが渦巻いていたのが正直なところだったと言う。
2015年の明治杯全日本選抜選手権58kg級は、翌年のリオデジャネイロ・オリンピックを目指す強豪選手が伊調馨との闘いを避けて他階級へ出場。同級のエントリーはわずか3選手。増田は、「他階級で実績をつくる」という気持ちもなかったので、“自分の階級”にエントリー。もちろん、「伊調に挑む!」という気持ちからの58kg級挑戦でもなかった。
「(3選手のエントリーで)ラッキーとしか思いませんでした。メダル確定やん、みたいな気持ちで(笑)。知らない人が肩書きだけ知ったら『全日本3位』ですからね(笑)。将来の就活に活かせるな、なんて気持ちでした」と笑う。
“引退試合”でもあった同年12月の天皇杯全日本選手権も、翌年のリオデジャネイロ・オリンピック出場枠を取っていた伊調馨がいる58kg級にエントリー。今度はエントリーが5選手だったので、「負けても3位」はない。きちんと勝ち上がり、第2日の最終試合で伊調との決勝を迎えた。マットサイドには、オリンピック4連覇を目指す伊調の一挙手一投足を逃すまいと、多くの報道陣があふれていた。
増田はこのときの気持ちを「どうせすぐ負けるのに、最後の試合に持ってこられて、報道カメラマンがたくさんいて、恥ずかしい気持ちでいっぱいでした」と話す。はからずも“かませ犬”(スター選手の強さを際立たせるための相手=元は闘犬用語)にされてしまった正直な気持ちだろう。
多くの選手が本気になって頂上を競い合い、ミリ単位の闘いを勝ち抜いた選手が出場するのがオリンピック、という状況が競技団体の理想だろう。全日本のトップレベルは、こういう選手であふれているべきだ。山が高すぎる場合は、そこに挑む気持ちにもならない。富士山への登山に四苦八苦する人間が、エベレストに登る気持ちを持たなくても当然である。
「オリンピックを目指す人は、もっとやる気があって、レスリングが大好きで、すべての情熱をそこに注ぎ込んでいる人だと思っていました。それは私じゃないな、と。オリンピックがすごい場所だというのは分かるのですが、自分には無縁の場所だと思っていました」
こうして、4歳からレスリングを続けてきた増田のレスリング生活は終わった。マットの上での金メダルは少なかったが、次は社会人としての金メダルが目標だ。白バイの警察官へのあこがれがあり、2020年に予定されていた東京オリンピックで、聖火ランナーを白バイで先導したい、という夢を持ち、大阪府警へ合格。
第2の人生を歩み始めた……つもりだったが、わずか2週間後、別の人生を歩み始めた。端的な理由は「自由を一番に尊重する自分に合わなかった」-。
事細かく説明すると警察への批判になるし、それが警察官になるために必要なことも分かるが、「大雑把な性格の自分には耐えられなかったんです」と説明する。「警察は、もっとちゃんとした人がつく職場」と笑うが、国から給料をもらっている立場で、悩みながらダラダラと続けていたら「税金の無駄遣いになって、申し訳ない」という気持ちがあったというから、けっこうしっかりした考えの持ち主だ。
父・周司さん(大阪・堺ジュニアクラブ)は「レスリング一筋で、しっかりした社会経験があるわけでもないのに、いい仕事につけた」と喜んでいたが、2週間後の心変わりにびっくり。警察学校から説得を頼まれ、自宅に戻った娘を言い聞かせて警察学校へ戻らせたが、「一度決めたら、考え直すことのない性格ですから」と言う増田の気持ちが変わることはなく、すぐに辞表を出したそうだ。父も「自分の人生だから、好きにさせた」と言う。
実家に引きこもることはできない。「お金を稼ぐ方法はいくらでもある」と思いながら、これまでレスリング中心の生活で社会経験がなく、社会人として通じないことに気づかされた。それでも、海外へ行きたいという気持ちがあって、その実現を目指してアルバイトを始めた。
地元の支援学級のお手伝い、塾の講師、居酒屋のキッチン、コンビニの店員などで、“フリーター”の生活。2週間での公務員退職を知った堺女子高校時代の恩師の東谷英由監督から「たるんでいる。鍛え直す」と言われ、週2回の体育の非常勤講師の仕事をもらった。もちろん東谷監督流の励ましで、レスリングをやっていたらこそ就けた職業を辞めたことにもったいなさを感じながら、「しっかりした考えを持っていた子ですから」と心配はしていなかった。
レスリングに接し続けられるように、との思いもあった非常勤講師の斡旋。増田は、夜の2時まで居酒屋で働き、朝から高校、という日もあったと振り返る。このときは、放課後はレスリング部の指導をやったそうで、レスリングとの糸がかろうじてつながっていたのも、運命なのだろう。東谷監督は、いったんは途切れたが、再びレスリングとのつながりを持ってくれたことがうれしそうだ。
(下の動画は、伊調馨を相手にした引退試合)