※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=樋口郁夫)
「格闘技の原点はレスリング」との観点から、多くのプロ格闘家がキッズレスリングに取り組む昨今。今年の全国少年少女選手権でも、プロ格闘家やプロレスラーの姿が目立った。その中で、ひと際大きな体ということもあり、人目を引いたのがプロレスラーの本田多聞さん(本田多聞レスリングスクール=右写真、後列中央が本田さん)。
レスリング界にいたのは20年前のバルセロナ五輪までだから、キッズ選手はもちろん、大学選手ですら名前を知らない人もいるだろうが、フリースタイル100・130kg級で五輪に3度連続出場を果たし、1984年ロサンゼルス五輪では5位に入賞した日本重量級を支えた一人だ。キッズレスリング出身選手として初めて五輪に出場したのは本田さんだ。
2年前からキッズの指導を手がけ、昨年の新潟大会は3選手が出場。今年は20選手を参加させ、教室を順調に伸ばしていることがうかがえる。「20人も参加させてよかったのかな、という気がしますけどね」と本田さん。全国大会のレベルの高さに、無理をさせてしまったのかもという気持ちもあるようだが、試行錯誤を繰り返しながらチームを発展させていきたい気持ちだ。
■ご他聞にもれず、0を1にする苦労を味わった
プロのリングに闘いの場所を移した本田さんだが、今年8月には49歳となり、次の人生を考える時に差しかかった。「自分のしてきたことを下に伝えていくには何か、と考えた時、レスリングしかないと思った。自分の信じる方法で伝えていきたいと思った」と言う。
最初に相談したのは、大学の先輩でもある日本協会の福田富昭会長。アドバイスを受け、人も紹介してくれ、学童保育のアカデミーとスポーツクラブの2ヶ所で練習場所を確保。2人の選手が集まってスタートすることができた。「いずれはマットを敷きっぱなしのスペースを確保してやってみたいですね」と夢を話す一方、「限られた時間と条件の下でいかに効率よくやるかを考えるのも楽しいです」と言う。
選手を集めるのに、プロレスラーとしての知名度が役に立ったと思われるが、「子供に対しても親に対しても、どちらかというと『オリンピックに3度出場した』という方が効いたみたいです」と言う。ただ、施設との交渉の場合はプロレスラーとしての肩書きが役に立ったという。プロアマ双方での名前があるだけに、他のクラブの創始者よりは有利な材料があったようだ。
【上】1992年バルセロナ五輪で闘う本田さん、【下】必殺技の「またさき」だが、キッズでは禁止技
2年経った今は、レスリングを知っている選手がいて、選手同士の練習もできるので指導も楽になった。しかし指導者は本田さんだけなので、大会の時は次から次へとセコンドにつかなければならない。「きのう(第2日)、万歩計を見たら3万歩でしたよ」-。
■道場でのプロレスごっこは厳禁!
プロレスラーが指導するとなると、「プロレスを教えているのか」と思われる面もある。女子選手の中に、学校でそう言われた選手もいたという。「自分自身も(キッズレスリング時代に)プロレスを習っているの、と言われることが嫌だった。混同させない。『そんな言い方をされたら、違うと言い返せ』と指導している」と言う。道場では、プロレスごっこはもちろん、キックやパンチの真似事も禁止。“やるのはレスリング”に徹している。
だが、本田さんのキッズ時代とは、展開されている技術の種類とレベルが全く違う。「ファザエフ・クラッチで相手を転がした選手がいて、びっくりしました」と言う。ファザエフとは、本田さんが現役時代の頃、68kg級で抜群の強さを持ったソ連の選手で、独特のクラッチによるグラウンド技の必殺技を持っていた選手。「びっくりしました」と笑う。
キッズで言われる「勝利至上主義の弊害」については、「競技ですから、勝つことを目指させるのはいいこと。勝つ喜びを知らなければ、レスリングのよさは分からない。負けてもいい、と思ってしまったら、逃げ道になってしまいます」ときっぱり。
ただ、「負けたことがダメ、と怒ることはしない。レスリングをずっと好きになってくれる指導をしたい」と言う。うまく選手を育てている指導者のやり方や考え方を見聞きし、バランスよくやっていきたいそうだ。
■将来の夢は、プロの指導者
今後の夢は、レスリング教室で生計を立てられるよう、大きくしていくこと。高田延彦さんや宮田和幸さん、永田克彦さんらのプロ格闘家が、総合格闘技の道場を経営しつつレスリング教室も開講しているが、本田さんは総合格闘技の経験はないので、そうした方向は考えておらず、あくまでもレスリングの指導を専門にやっていきたいという気持ちだ。
身長188cmの大きな体で子供たちを指導する本田さん
本田さんも当初、月謝を取ることへの戸惑いはあったそうだが、いろんな人の話を聞き、「選手に対して責任を持つためにも、きちんと月謝を取って教えるべきだ」と考えるようになった。その延長線上にあるのが“指導のプロ”ということだろう。「苦労は多いと思いますが…」と控えめながらも、今後の人生をレスリングにかけたいという気持ちが随所に表れている。
キッズ時代からレスリングから始めて五輪に3度出場した本田さんにとって、レスリングの魅力とは? 「一人で闘うことですね。後ろに仲間はいても、闘うのは一人。子供の成長には絶対に必要なことだと思います」-。プロレス人生も終盤となったが、「また、燃えられるものに巡り合いました」と、原点回帰によって今後の人生も燃えられそうだ。
現在の最大の支援者は加奈夫人。長年ピアノ教室で子供の指導をしてきているので、子供への接し方は“プロ”。レスリングの大会には毎回ついてきてくれ、『そんな指導ではダメよ。オリンピックの話なんかしたって』と、ダメ出しばかりされています(笑)」。
キッズの指導者としてはスタートしたばかり。五輪に3度出場した情熱と意地で、キッズレスリング界に新しい風を吹かせてくれるか。