※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
2度の東京オリンピック取材を目指す宮澤さんが、強く訴えるのが、「五輪ではなく、正しくオリンピックという呼称を使ってほしい」という思い。「五輪」という言葉は、1940年東京オリンピック開催が決定した際(1936年ベルリンでの国際オリンピック委員会=IOC=総会)、読売新聞の川本信正記者が略称として使用したもの。オリンピックのマークに5つの輪があることで「五輪」とした。字数制限を余儀なくされる新聞ならではの発想だ。
だが、IOCの憲章に「five circles」といった言葉はない。当初は会社の方針で「五輪」を使っていた宮澤さんだが、国内外のオリンピアンを取材するうちに、「新聞社の都合で五輪と表記してはならない」と思ったという。
「ベースボールは、日本では野球と表記され、スイミングは水泳、ジムナスティックは体操…。それにならえば、オリンピックが五輪と表記されても、おかしくないのでは?」。この問いかけには、温厚な宮澤さんがやや怒りの表情を浮かべて答えた。それらのスポーツに携わっている人達からの反発を覚悟で披露させてもらえば、「オリンピックは価値が違います。『オリンピック』だから崇高なんです。『五輪選手』ではなく、『オリンピアン』だから、選手は誇りを持つんじゃないですか」。
最近では、選手自身がインタビューで「ごりん」と話す場合もある。「オリンピックという言葉に、誇りを持ってほしい」と訴える。
2004年に日本オリンピック委員会(JOC)の公式サイト「東京オリンピックから40年」で、「柔道無差別、神永の敗戦を見守ったひとりの記者・宮澤正幸氏」が掲載されたあたりから、「取材する人間だったのに、取材されることも多くなりましてね」と言う。
2017年には笹川スポーツ財団「スポーツ 歴史の検証」の「日本のメディアはオリンピックで何を伝えたのか」で特集され、今年5月にデイリー新潮で「55年前と来年『東京五輪』を2回取材 89歳現役“格闘技記者”の凄すぎる取材歴」で扱われた。『東京オリンピックで2度目の取材をした時は、取材させてください』という予約も入っています」とのこと。
柔道、レスリング、体操(加藤沢男にサワオ彗星、塚原光男にムーンサルト月面宙返りの呼称をつけたのは宮澤さん)と新体操、空手、近代五種(自衛隊のメキシコ大会代表の福井敏男氏と2人で1977年に関東学連を育てた)、パラリンピックと取材希望範囲は広い。
東京オリンピックに先立ち、聖火ランナーの募集にも応募する予定というから、当選すれば「90歳、1964年大会を取材した現役記者」ということで取材が来てもおかしくはあるまい。神奈川・小田原生まれの小田原育ちで、箱根駅伝を見て育ち、子供の頃は箱根駅伝を走るランナーを目指していたという。日本テレビが3年前の正月の4区・平塚→小田原間実況番組「駅伝今昔物語」に取り上げたほどだ。
昨年の手術前には、第一生命女子陸上部主催の運動会で400メートル・トラック2周、どん尻ながら完走した。聖火リレーは一人200メートル。走り抜く自信はありそう。7月21日には、2008年北京オリンピックのあと、拓大の西口茂樹部長(現日本協会強化本部長)の要請で宮澤さんが強く推した須藤元気・拓大監督が参議院選挙で当選した。これも、まだ頑張る刺激材料となったようだ。
最後に、「2度の東京オリンピック取材のあと、内藤さんの銅メダル獲得から100年後のパリ・オリンピック(2024年)はどうですか」と聞いてみた。「(昨年)前立腺がんが見つかった時、ホルモン治療であと5年から10年は保証できる、と言われましたからね」。NHK「フランス語講座」(月曜朝6時)の視聴は休まない。
「そこまでは健在でいたい」という意思の表れに他なるまい。《完》
▲東日本学生リーグ戦を観戦にした柔道王ウィリアム・ルスカ(左)とイランからの留学生アリ・サレヒ(現在は米国サンフランシスコでガソリンスタンド経営)。右はルスカとアントニオ猪木との対戦を仲介した福田富昭・現日本協会会長