(文=布施鋼治)
「ミラクル」という言葉を、むやみやたらに使ってはいけない。少なくともスポーツの世界においては。しかしながら、女子62㎏級の元木咲良(育英大助手)には、何度も「ミラクル」を見せられていることは疑いようもない事実だ。
例えばパリ・オリンピック準決勝。グレース・ブレン(ノルウェー)を相手に、土壇場で繰り出した反り投げは大逆転のフォール勝ちを呼び込んだ。今年6月22日、全日本選抜選手権での尾﨑野乃香(当時慶大)との間で争われたプレーオフもそうだった。残り30秒までは3-5と劣勢だったが、タックルで左足を攻め続け、ラスト0秒17で大逆転のテイクダウンを奪って薄氷の勝利を収めた。
そして今回の世界選手権決勝でも、元木はまさかの逆転劇を見せた。
もう一方のブロックから勝ち上がってきたのはキム・オクユ(北朝鮮)。今年のアジア選手権2位の選手だ。かつて対戦したことはなかったが、北朝鮮勢は今年のアジア選手権に続き、世界選手権でも目覚ましい活躍を見せていただけに、決してあなどれない存在だった。
案の定、第2ピリオドになると、キムはバックを奪って2-3と1点差まで追い上げ、続けてローリングも決め4-3と逆転した。
「3点差だったので、片足タックルに入られたときに、2ポイントやっても大丈夫、と思ったんです。でも、ローリングで返ってしまったときは、これまずい、と思いました」
元木は過去,世界選手権に59㎏級と62㎏級で一度ずつ出場しているが、まだ優勝した経験がない。そうであるがゆえにネガティブな感情が芽生えた。
「ここまで来て、まだ勝てないのか」
それでも、電光掲示板を見ると、残り12秒あることが分かったので、すぐ気持ちを入れ換えた。
「大丈夫。1回は仕掛けられる」
しかし、逆転をかけたタックルは失敗してしまい、一度は「ヤバい、終わった」と半ば勝負を諦めた。その刹那、キムが自分の背中に乗っていることが分かった。
「投げたら、もしかしたらいけるかも」
これが本当のラストチャンス。思い切って首投げを仕掛け、そこで終了のホイッスル。当初、レフェリーはキムの肩は返っていないとして、キムの勝利を告げた。オリンピック・チャンピオンを破ったことで、絶叫して喜ぶキム。元木は、こんなところでまた負けたのかと唇をかんだ。
ここで元木サイドはチャレンジを試みた。映像を見返すと、0.3秒を残した段階でキムの肩が返っていると判定され、勝敗は覆された。元木は“持っている”としか言いようがない。
敗者から一転して勝者になった元木は安堵の表情を浮かべた。「オリンピックのときと一緒で、また負けるのか、と思ったところから、勝敗がひっくり返って勝つことができた。パリのときと一緒で安心したというか、(自然と)涙が出てきました」
パリ・オリンピックでブレンを見事な反り投げで宙を舞わせた直後、元木は「練習でもやったことがない」と打ち明けている。もっとも試合前、先に金メダルを取った文田健一郎の反り投げの映像を見ていたことで、その脳裏に反り投げが刷り込まれていたことは確かだった。
首投げには苦い思い出がある。高校時代、首投げができなかった元木は、軌道が似ているボールを投げる練習を何度もやるように指示され、トライしたが、それすらもうまくできなくて涙を流していたという。「あのときの投球練習がここで生きるとは」。
「三つ子の魂百まで」ではないが、高校時代の苦しかった練習を元木の体は覚えていた。
初のシニアの世界チャンピオンとなった元木は、休む間もなく来月にはU23世界選手権(セルビア)にも出場する。ここで優勝すれば、“世界のグランドスラム”達成となる(4世代の世界選手権優勝+オリンピック優勝)。その記録からすれば、エリート選手とみなされても不思議ではないが、元木は強い口調で「全然そんなことはない」と否定した。
「U17(当時カデット)で世界チャンピオンになってから、けがもあって、復帰したら弱くなっていた。それでインターハイも1回戦で負けちゃったり。そこから育英大に進学して、ようやく伸びてきたと思ったら、また大けがを負った。そういった辛かったり困難な時期を、私はたくさんの人に支えられ、乗り越えてることができた。グランドスラム達成はその集大成だと思います。U23の出場できるチャンスは今年が最後なので、必ず取れるように頑張りたい」
人知れず泣いた分だけ強くなった。U23でもミラクルを起こせ!