(文=布施鋼治)
3年ぶりに世界チャンピオンになった森川美和(ALSOK)は、準決勝までは頬(ほほ)に貼った絆創膏(ばんそうこう)に、決勝はリストバンドに、それぞれ一言を書いてマットに上がっていた。
例えば、イリナ・リンガチ(モルドバ)との準決勝では、絆創膏に「圧力」と記されていた。今回、練習パートナーとして帯同してくれた尾﨑野乃香が書いてくれたという。
「1回戦は『強気』で、それが終わったら『圧力』と書いてくれました。野乃香は、試合中に絆創膏がはがれてマットに落ちたとき『その気持ちを忘れないために』ということで書いてくれたんですよ」
所属は違えど、強化合宿では何度も顔を合わせ、2023年全日本選手権では、石井亜海(クリナップ)が取ってきたパリ・オリンピック出場枠を争って決勝で直接対決となった2人だからこそ、分かりあえることもある。
「たぶん自分に足りないものを書いてくれていたんだと思う。野乃香は優秀なパートナーです(微笑)」
パリ・オリンピックへの出場を逸して以来、森川は今まで以上に自分に足りないものを意識するようになった。日体大レスリング部は、男子は神奈川の健志台キャンパス、女子は東京の世田谷キャンパスを拠点に別々に練習しているが、森川は自ら率先して男子の練習に交じって汗を流す。
「何かを変えなければ、オリンピックで金メダル獲得の夢は果たせない」
そう思ったのだろう。日体大の男子の選手の取材で健志台校舎に足を運ぶと、ほとんど毎回、森川の姿が目に入った。女子だからといって、お客さん扱いはされず、普通に男子の中に同化していた。
時には松本慎吾監督の胸を借り、場外際でのステップアウトの練習を繰り返し行っていた。押しても引いても、松本監督の足はマットに根を張ったように動かない。それでも森川は眉間にしわを寄せながら、必死に監督を動かそうとしていた。
その練習の成果は、今大会でも存分にいかされていた。場外際の攻防になっても、森川から焦りを感じることはない。相手の重心を浮かせて外に出す。場外際で体を入れ代えられることも想定内で、落ち着いてさらに体を入れ換え場外に押し出していた。
トーナメントの最初のヤマは、イリナ・リンガシ(前述)との3回戦だった。過去、イリナとは3度闘っているが、勝利はイリナの負傷棄権のときだけで(今年のランキング大会第2戦決勝)、分が悪かった。「絶対リベンジしたい、という強い気持ちがありながら、その一方で不安もありました」
悩める心を森川はどのように整えたのか。イリナ戦前、森川は思い切ってネガティブな感情を全て受け入れることにした。
「頭の中をひとつひとつ整理して、コーチの(伊調)馨さんや尾﨑とも話をしました。そういうことも手伝って、テクニカル(スペリオリティ)までもっていけたんだと思います」
アリナ・カサビエバ(UWW=ロシア)との決勝では、小手投げの攻防から、森川らしく片足をとってステップアウト。その先制点を手始めにテイクダウンからのバックなどでポイントを積み重ね、8-0で勝利を収めた。
優勝を決めたあとは伊調コーチに声をかけ、2人でのウイニングランを実現させた。「伊調コーチは(ウィニングランを)リオデジャネイロ・オリンピック以来やっていないと思ったので。コーチに金メダルを贈れたこともすごくよかったし、笑顔でマットに出してくれたので、ちょっとは現役時代のことを思い出してくれたかなと思います(微笑)」
試合後、森川は2028年ロサンゼルス・オリンピックに向けて階級をオリンピック階級の68㎏級に上げることを宣言した。「世界選手権は2回目の優勝なので、伊調コーチの記録には全然足りていないけど、とりあえず優勝できてよかった。これからは今まで以上に厳しい闘いが始まるので、あらためて頑張っていきたい」
ちなみに、決勝前、尾﨑が森川のリストバンドに記した言葉は「心」だった。コーチ、練習パートナー、練習仲間、そしてクロアチアまで応援に駆けつけてくれた家族…。みんなの心がつながり、森川の心も整ったうえでの戴冠だったのだから、これほどいまの彼女にふさわしい言葉はあるまい。