2025.07.21NEW

【追悼】ライバル吉田沙保里に送ったさわやかな笑顔が忘れられない(編集長・樋口郁夫)

 「不撓不屈(ふとうふくつ)の精神」という言葉がぴったりくるような選手だった小原日登美さんが、44歳の若さで旅立った。

 自身の本来の階級である51kg級がオリンピックで実施されなかったため、2度もオリンピックへの道が閉ざされた。2度の挫折から力強くよみがえり、48kg級で2012年ロンドン・オリンピックへ挑んで見事に金メダルを獲得。バッティングによって右目の周りを黒く腫らし、涙にまみれながら両手を突き上げた姿が忘れられない。

▲減量苦と闘いながら挑んだ2021年ロンドン・オリンピックで金メダルを獲得=撮影=矢吹建夫

 もうひとつ忘れられないシーンが、2007年世界選手権=北京オリンピック予選(アゼルバイジャン)でのバックステージでの出来事だ(ウォーミングアップ場には、今と違って報道陣も自由に入れた)。55kg級の国内予選で敗れた坂本(当時)は、本来の51kg級で代表権を獲得。他を寄せつけない強さで優勝した。しかし、翌年の北京オリンピックへの出場にはつながらない。

 前日、48kg級で伊調千春が勝ち、この日の自分の試合のあとの55kg級で吉田沙保里が優勝し、規定で両選手が北京オリンピックの代表に内定。坂本のオリンピックへの道はついえた。そんな状況であったにもかかわらず、表彰式を終えた吉田がバックステージへ戻ると、真っ先に駆け寄って「おめでとう」と声をかけたのが坂本だった。そのあとの報道陣との対応では、「千春には(北京で)絶対に金メダルを取ってほしい」と話した。

 マットの上では火花を散らすライバルでも、決着がついたあとは相手をたたえ、栄光を願う-。やたら美談を作り上げようとは思わないが、死力を尽くして闘った相手だからこそ頑張ってほしい、というやりとりを見るのは、何度経験しても心が震える。

 私が、一般企業なら再雇用も終わる年齢になっても記者を続けているのは、力の限りをぶつけ合ったライバル同士が試合後に健闘をたたえ合うシーンを何度も見たい、という思いがあるからだ。これまで経験した中で、強い印象として残っているひとつが、2007年の小原さんのライバルへのラブコールだった。

▲北京オリンピックにはつながらない世界一に涙を流した坂本日登美。このあと、オリンピック出場を決めた吉田沙保里を笑顔で祝福した=撮影・矢吹建夫

 昨年2月、小原さんは自衛隊の選手を連れて母校の至学館大を訪れ、私も取材で向かった。練習後、「挫折から2度もはい上がって栄光をつかみ、頭がシャープな苦労人は、将来、協会の会長としてレスリング界を引っ張っていくべき人材だよ」と話しかけた。社交辞令ではなく、正直な気持ちだった。

 「お金(協会の財源)を集められないから無理ですよ」と返してきたので、「じゃあ、お金を集められる人をつければ、やってもいいんだね」と言うと、「え? まあ…」と、いわゆる“ジャパニーズ・スマイル”。雑談であって論議するほど現実的なことではないので、私に合わせただけかもしれないが、その表情から、いずれ日本レスリング協会初の女性会長、しかも40代か50代の若き会長が誕生するかも、という思いが脳裏をよぎった。その思いが実現することはなくなった。

▲今年6月の明治杯全日本選抜選手権(東京体育館)で村山春菜の世界選手権代表決定を祝福した小原日登美さん。1ヶ月後に旅立つとは…=撮影・矢吹建夫

 思えば1999年12月の全日本選手権の試合前、中京女大の栄和人監督(現至学館大=今年3月に退官)がウォーミングアップ中の坂本を指して、自信たっぷりに「優勝するから見ててね」と言ってきたのが彼女の存在を意識した最初だった。その時点で、だれからかは忘れたが、同郷(青森県)の強豪だった伊調千春に10連敗くらしているという情報を得ていたので、「厳しいのでは…」と思っていた。

 決勝で対戦した両者は、栄監督の予想通り坂本が勝ち、感涙にまみれた。そのときから注目し、遠くからだが浮き沈みを見てきた。選手を終えたあとは、指導者として、そして協会役員として、日本レスリング界を支えていく人材だと思っていたので、とても残念だ。

 ロンドンでの涙にまみれたガッツポーズのみならず、吉田沙保里へ送ったさわやかな笑顔と祝福が忘れられない。ご冥福をお祈りします。