(文=編集長・樋口郁夫)
過日、藤波朱理選手(日体大)の父・藤波俊一コーチと飲む機会があった。スター選手の父親とはいえ、同じ昭和世代なので緊張のかけらもなくビールを傾けられる。体にほどよくアルコールが回ったあと、日頃から思っていたことを伝えてみた。
「朱理ちゃん(そのときの会話の言葉通り)を、日本のスターにしてしまってはダメですよ」-。
一瞬、けげんそうな表情を見せた藤波コーチ。朱理選手の活躍でレスリングの存在と魅力を世間にアピールできているのは間違いない事実。それを否定するかのような言葉に、意味がつかめなかったのだろう。「レスリングの発展に貢献している娘に、何てことを言うんだ!」と思ったかもしれないが、私は構わず持論を続けた。
「大学を卒業したら、アメリカで活動させましょう。アメリカでスターにして、そのあとは世界のスターを目指させるんです!」
予想外の提案に戸惑う藤波コーチ。結論を先に書く記者の習性(注=ニュース記事は、「優勝した」という結果を先に書き、そのあと対戦相手の経歴や試合内容を書くのが基本なんです)は、ときに噛み合わない会話になってしまう。藤波コーチが私の意図することをつかめなかったのは当然だろう。
順を追って書きます。
(1)日本で活動して世界選手権とオリンピックで勝ち、ときにテレビ番組に出てレスリングの存在を世間にアピールしても、1億人を相手にしてのアピールでしかない。対して、米国の人口は3.4億人。英語を公用語・第2公用語とする国は70ヶ国近く。欧州の人は英語に抵抗がないので、スピーカーは約30~35億人。
↓
(2)世界最多の英語スピーカーを相手に米国が展開するスポーツ・ビジネスは、日本を含めた他国とけた違い。野球、バスケットボール、ボクシング、MMA(総合格闘技)などの運営規模、選手のギャラ、PPV(有料テレビや動画)の数などは、日本のスポーツ界は足下にも及ばない。
↓
(3)レスリングも例外ではなく、全米大学(NCAA)選手権は1セッション2万人近く、3日間6セッションで10万人を超える観客が集まる一大スポーツ。最近はプロとしての大会も行われ(2月26日には小野正之助選手と高谷大地選手が出場するイベントが開催される=関連記事)、着実にスポーツ・ビジネス成功の道を歩み始めている。来年から全米大学(NCAA)選手権に女子が加わり、女子レスリングへの注目はこれまで以上に増すはず。さらなる成長が期待される。
↓
(4)藤波朱理選手がこの流れに乗れば、その強さと華のある雰囲気からして米国でスターとなる可能性は十分。世界レスリング連盟(UWW)も連勝記録を注目しており、UWWとの連携によって、その人気は米国内にとどまらず、世界規模になる可能性を秘めている。
こうした予測のもと、「朱理選手を、たった1億人(!)の中のスターにしてはいけない。世界のスターを目指させてほしい」というのが、私の主張。順序立てた説明で藤波コーチも真意を理解してくれたようだが、「いきなり言われてもねえ…」と苦笑い。
▲2015年11月にアイオワ大のアメリカンフットボール・スタジアムで行われたアイオワ大とオクラホマ州立大の対抗戦。4万2,287人の観客が集まった。米国の大会運営はスケールが違う=アイオワ大ウェブサイトよる
アルコールは入っていたが、私はいたって真剣だった。大谷翔平選手が大リーグの歴史を次々に塗り替えていく躍進を見るにつけ、「才能あるレスリング選手を、日本という狭い空間に置いておくべきではない」という気持ちを強くしている。
野球は、はっきり言えば北中米とアジアの一部など極めて局地的なスポーツであり、世界的にはマイナーなスポーツ。レスリングは、米国と並ぶスポーツ大国のロシアでも盛ん。米国とロシアの2大国が力を入れている数少ない競技であり、世界のメジャースポーツを目指す下地はある。藤波朱理選手なら、UWWの協力のもと、世界のスターになる可能性は高い。
「大谷翔平」というスーパースターは、ある日、突然生まれたわけではない。30年前、野茂英雄選手が海を渡り、成功をおさめたことで、大リーグが日本の野球選手の目標となった。イチロー選手、松井秀喜選手、ダルビッシュ有選手ら才能に恵まれた選手が続き、多くの選手が夢を追い求め、そのあと「大谷翔平」が生まれた。野茂英雄選手が大リーグへ挑戦しなかったら、今の大谷翔平選手はいなかった。
大谷翔平選手の現在の年俸は約107億円(7,000万ドル=10年総額7億ドル)。日本ハムで野球を続けていたら、これだけの金は稼げないし、米国からの注目もない。レスリングが米国のスポーツ・ビジネスに乗れば、何億円も稼ぐスターが生まれるのも夢ではない。金が目的でレスリングを始めた選手は少ないと思うが、一流選手が稼ぐ金の額面はそのスポーツのステータスであり、後に続く選手の目標となる。
大谷翔平選手に匹敵する、いや、現在のスポーツ界で最高の年間292億円を稼ぐサッカーのクリスティアーノ・ロナウド選手(ポルトガル)のようなスーパースターが生まれ、レスリングが世界のメジャースポーツの地位を獲得する日を強く望みたい。
藤波朱理選手が30年後も現役でやっているとは思えないので、「大谷翔平」になるのは無理かもしれない。それなら、「野茂英雄」になってほしい。藤波朱理選手が米国のスターになれば、若くて才能に恵まれた選手の多くがそこを目指す。英会話力の必要性を感じて座学も一生懸命にやり、国際社会で通じる選手が多くなる。
何はともあれ、パイオニアとなるべき選手が必要だ。もちろん、闘う選手は、スター街道を走る選手を引きずり落とすつもりでやるべきだ。スターが相手でも、いかなる遠慮も忖度(そんたく=他人の気持ちに配慮すること)もいらない。
夢物語? でも、夢を持たない人生じゃ、面白くないでしょ。NHKの人気アニメ「忍たま乱太郎」の主題歌「100%勇気」の歌詞に、「夢はでかくなけりゃ、つまらないだろ。胸をたたいて、冒険しよう」がある。どんな人間でも、大きな夢を持っていい。
1969年7月に実現したアポロ11号の2人の宇宙飛行士の月面着陸に際し、計画から実現までに地上(NASA=アメリカ航空宇宙局)でかかわった人間は40万人以上と言われる。だれもが「人類を月に送る」という夢を持ち、意地と情熱を燃やして挑戦を続けた結果の偉業だったと思う。私には主役になる才能はなかったが、“NASAの一員”としての仕事はできる。記事と写真でレスリングの魅力を伝え、選手のモチベーションを高めることだ。
▲UFC史上4人目の2階級同時王者となったヘンリー・セフード(2008年北京オリンピック金メダリスト)も、藤波朱理との2ショット写真を“おねだり”。米国のスポーツ界からも注目を浴びつつある=パリ・オリンピック金メダル獲得の翌々日、UWW懇親会にて
モハメド・アリ(元プロボクシング世界ヘビー級王者)の名言、「不可能とは、 自らの力で世界を切り開くことを放棄した臆病者の言葉。 現状に甘んじるための言い訳に過ぎない。 不可能とは、 誰かに決めつけられることではない」という言葉が好きだ。他人の挑戦を「無理」と決めつけたり、小馬鹿にする人間は、できない理由を探すことが一流の人間。そんな人間を相手にすることはない。
1990年代の底冷えがした日本レスリング界で、オリンピックの金8個を予想した人がいただろうか? 野茂英雄が大リーグに挑む前、その歴史を次々と塗り替える日本人選手が生まれることを、だれが予想しただろうか?
オリンピックで金8個を取った日本が、今後やるべきことは、金科玉条(きんかぎょくじょう=絶対的なよりどころ)としてオリンピックの金メダル数を目標にすることではない。レスリング大国の米国とロシア、そしてUWWとスクラムを組み、レスリングを世界のメジャースポーツに押し上げ、世界のスーパースター輩出を目指すことだ。
「100%勇気」の2番の歌詞には、「じっとしてちゃ、始まらない、このときめき。君と追いかけてゆける風が好きだよ」があり、これも好きな言葉。レスリング界から世界のスーパースターを誕生させたい、と思う人、この指止まれ! そんな人とともに作る風に乗って、夢を追いかけたい。