年末から年始にかけ、秋田県レスリング界、さらに日本レスリング界の発展に大きな貢献をした重鎮が続けて他界された。同県の北志館道場で指導していた佐藤幸雄氏が昨年12月29日午後6時47分、体力つくり杉田道場の杉田秀夫氏が今年1月7日午後7時27分、それぞれ死去した。佐藤氏が83歳、杉田氏が87歳。
佐藤氏は秋田経法大附属高校でレスリングに打ち込み、国士舘大を経て秋田・五城目高校の監督へ。教え子には1976年モントリオール・オリンピック銅メダルの菅原弥三郎ら強豪が多数いる。
昨年夏ころから、特に病気ということではないが食欲がなくなって体調を崩し、介護施設を経て12月27日に秋田市の病院へ入院。29日に容態が急変して息を引き取った。葬儀は1月4日に行われ、家族のほか、レスリング関係、教職員仲間など、中には県外からも訪れて故人を見送った。喪主は長男・佐藤幸士さん。
北志館道場は、佐藤大輔コーチ(故人と血縁関係はなし)が継続することで幸士さんと交渉中。同コーチは「恩師の衰えた姿を見る勇気が出せず、昨年6月から会っておりませんでした。生前に面会しておければと悔いています」と話した。
教え子のひとりだった菅原さんは「スランプや勝てない時期、『練習不足からきているんだ。もっと練習し、努力しなさい』と指導されました。常日頃からの努力が大事と教えられ、『それが社会に出てからも通じる』と話されたことが印象に残っています」と振り返る。
五城目高校の監督として、「インターハイの団体2位が3回、3位が3回。個人戦と国体のチャンピオンは16人いて、3位以内も13人育てました」と、恩師の指導実績がすらすら出てくるほどで、「わたしたちの誇りの先生でした」と話した。
杉田氏は秋田県レスリング界の黎明期に秋田商業高校でレスリングに取り組み、1956(昭和31年)、卒業と同時に銀行勤務のかたわら監督に就任。1962年のインターハイ学校対抗戦で準優勝するまでにチームを強化。1973年に優勝を成し遂げた。育てたオリンピック選手は、1972年ミュンヘン優勝の柳田英明(明大進学)、1976年モントリオール6位の石田和春(小玉合名へ)、同代表で同高の監督を長く務めた茂木優(国士舘大進学)、1980年モスクワ代表の宮原章(明大進学)、銀メダル2個を含めて4度連続代表の太田章(早大進学)の5人(のべ8人)。
同高からはその後、1988年ソウル・オリンピック優勝の佐藤満(日体大進学)、オリンピック2度出場の片山貴光(同)が生まれており、杉田氏の尽力があればこそ同県から多くのオリンピック選手が誕生した。
1979年、杉田道場を設立し、少年少女選手の育成を手がけた。自身は全日本マスターズ選手権への出場を続け、2020年1月の大会には83歳にして出場した。コロナ明けの2023年からの出場はなかったが、亡くなる前日まで道場で元気に選手を指導しており、突然の他界だったという。
葬儀は1月11日に行われ、道場生、道場生保護者、道場卒業生、秋田商業高校監督時代の教え子ら約200人が参列した。喪主は長男・杉田健吾さん(早大OB=1994年全日本学生選手権優勝)。
秋田商高での最後の教え子でもある太田章さんは、柔道で県王者となったあと、杉田氏の勧めでレスリングの道へ入った。高校1年生のときにインターハイ団体優勝を勝ち取り、個人戦でも3位に入るなど飛躍でき、オリンピック4度連続出場を果たす基礎をつくってくれた恩人。
「私が生まれる前から銀行員として両親のもとに来ていて、章という名前を考えてくれたのが杉田さんなんです」とも振り返る。厳しい指導だったが、自分に対しても厳しく、「決めたことは絶対にやり抜く人だった。杉田さんがいなければ、レスリングの太田章はいませんでした。感謝の気持ちしかありません」と話した。
数年前に股関節の手術をしたものの、周囲から「とても元気だ」と聞いていたので、無理に会いにいくことはなかったとのこと。「会いに行けばよかった、と悔やまれます」と突然の別れを悔やんだ。