※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=布施鋼治)
「思っていた以上にアジア大会の金メダルは大きい。このメダルに、ちょっとでもホンモノの金が混じっていたらもっとうれしいのに」
2023年アジア大会第3日(10月6日)。男子フリースタイル57㎏級決勝で長谷川敏裕(三恵海運)はハン・チョンソン(北朝鮮)を7-3で撃破。前日の女子3選手に続く金メダルを獲得し、至福の声をあげた。
オリンピック同様、アジア大会の金メダルの材質は銀ながら、表面には金メッキが施されている。この事実を知ったならば、長谷川は飛び上がって喜ぶだろうか。どちらかといえば寡黙で試合中も感情の起伏を表に出さないタイプと思われたが、この日は明らかに違った。勝ち上がるにつれ、たけだけしく気持ちを出していく。
初戦は地元中国代表との対戦となり、試合前から会場は観客席の四方から飛び交う「ジャーィヨウ(頑張れ)!」コール一色となったが、その場の空気にのまれることはなかった。
「そういえば、最初の入場のときしか聞こえなかったですね。試合にすごく集中していたのかなと思います」
耳に届くのは、ふだんの練習から指導してもらっており、今回もセコンドについた湯元健一コーチ(日体大教)の声だけだった。
「湯元先生のアドバイスだけを聞くようにしていました。国際大会では毎回先生についてもらっているけど、いつも安心して自分のレスリングができる」
約2週間前にセルビアで行われた世界選手権で、同じ所属の日下尚が男子グレコローマン77㎏級で銅メダルを獲得し、パリ・オリンピック行きを決めた活躍も大きな刺激になったという。
「(世界選手権と同時期の)鹿児島国体では、同じ三恵海運の吉田ケイワンが成年男子フリースタイル97kg級で優勝している。すごくいい形で僕に勝利のバトンを渡してくれたと思います」
3年前から長谷川は同社の世話になっているが、感謝しかないと振り返る。「練習に専念できる環境を作ってもらっているのに加え、他の企業と比べると社長との距離も近い。高田肇社長(大体大OB)は所属する各選手のことを気にかけてくれ、直接電話をかけてくれたりしているんですよ。恵まれていると思いますね」
反対ブロックからハンが勝ち上がってくることは想定外だった。「どんな選手なのか全く分からなかったので、組み合わせが決まっても自分のスタイルを貫くことしか考えていなかったです。実は5年前に北朝鮮の無名の選手と闘ったことがあって、そのときは負けている。今回はそのときと同じようなミスをしないように心がけました」
決勝はスコア以上のシーソーゲームになった。「ハンは見た目以上に力のある選手でした。思った以上に自分が攻められなかった」
中でも、第2ピリオドにはハンが俵返しを2度も仕掛け、長谷川がそれを返す目まぐるしい攻防となり、電光掲示版のスコアは二転三転した。長谷川も途中からの点数経過をはっきりとは覚えていない。
「目まぐるしく点数が変わったので、最終的に自分も何がポイントになったのかよく分からない。点数を取られそうな場面も多かったので、正直焦ったりもしたけど、そういうときに湯元先生からの『落ち着け』というアドバイスが聞こえたおかげで、冷静に闘うことができました」
最終的に7-3で長谷川が勝利を収めたが、どちらに転んでもおかしくない一戦だった。
「見た目も若いし、ハンはこれから伸びてくる選手だと思う」
長谷川にとっては2021年世界選手権(ノルウェー)61kg級で3位になったとき以来の国際大会のメダル獲得であり、優勝は2018年U23世界選手権以来。すでにパリ・オリンピック57㎏級の枠は樋口黎(ミキハウス)が獲得している。気になる今後についても聞いてみた。
「この次は12月の全日本選手権に出る予定です。どの階級にエントリーするかはいろいろ相談してから決めたい。最終的に決めるのは自分ですけどね」
その口ぶりから察するに、非オリンピック階級の61㎏級、あるいはまだパリ・オリンピックの枠が取れていない65㎏級にエントリーする可能性もあるのか。アジア・チャンピオンの決断を待ちたい。