※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=布施鋼治)
2023年世界選手権の男子グレコーマン67㎏級は、組み合わせが決まった時点で、曽我部京太郎(日体大)のヤマは3回戦と予想された。初戦の2回戦でスウェーデン選手を順当に破れば、3回戦では2021年東京オリンピック金メダリストで同年の世界選手権でも優勝のモハマド・レザ・アブドルハム・ゲラエイ(イラン)とぶつかることになったからだ。
東京オリンピックへ向けてのこの階級は、下山田培と髙橋昭五(ともに警視庁=当時)が代表の座を激しく争っていたが、残念ながら両選手ともオリンピックのマットに立つことはなかった。
パリ・オリンピックの代表の座をめぐっては、天皇杯全日本選手権と明治杯全日本選抜選手権で何度も優勝している遠藤功章(東和エンジニアリング)、曽我部、63㎏級で2021年の世界選手権3位の実績を持つ清水賢亮(自衛隊)、そして昨年のフリースタイル70㎏級世界王者でグレコローマン挑戦を宣言している成國大志(MTX GOLD KIDS)らが激しくしのぎを削る展開になった。
その中から抜け出たのは曽我部と遠藤。両者は世界選手権代表を決める天皇杯と明治杯の決勝を争い、優勝を分け合い、代表決定は7月1日のプレーオフへと持ち越された。ここで曽我部が4-2で遠藤を振り切り、初めて世界選手権への出場権を得た。
それからの曽我部は以前にも増して練習の虫になった。笹本睦コーチ(日本オリンピック委員会)の証言。「曽我部選手は練習をすごく頑張っていて、8月のドイツ遠征でもオリンピック出場の資格を取るという気持ちが伝わってきました」
初戦を簡単に突破した曽我部は、ゲラエイとの3回戦に臨んだ。
「オリンピックの金メダリストを相手に、どれだけ爪痕を残せるのか」
第三者の予想はそんな感じだったように思う。しかし、曽我部は第1ピリオドにどんどん圧力をかけ、ローリングであっという間に点数を重ね、7-0とゲラエイを崖っぷちに追い込んだ。
しかし、ポイント数を離されていても、流れが変わって攻守が入れ替われば、すぐに逆転できる。それがレスリングの醍醐味のひとつ。この一戦はまさにそうだった。
第2ピリオド開始早々、ゲラエイは反撃を開始。バックを取ったかと思えば、リフトして投げ捨て4点を奪った。これで1点差にまで点差を縮めた。勢いに乗ったゲラエイは俵返しを仕掛けようとするが、曽我部は踏ん張って逆に相手を崩し、再びローリングの連続攻撃。点差は、一時テクニカルスペリオリティ(テクニカルフォール)に該当する15-6まで開いたが、ここでゲラエイ側がチャレンジ。
「曽我部が下半身に触っていた」という訴えが認められ、そのあとのローリングはすべて無効。相手に2点が入り、スコアは7-8と大幅に修正されて再スタート。
残り時間1分15秒、スコアが9-10のときに事件は起きた。2階席からマットに水の入ったペットボトルが投げ込まれた。投げ入れた“犯人”は即座に拘束された。その正体は、ゲラエイの実兄で前々日に試合を終えていた77㎏級のモハマダリ・アブドルハミド・ゲラエイ(イラン)だった。
投げ入れたとき、彼の弟はスタミナ切れで、もうほとんど動けなくなっていた。確信犯としか思えない。マットに水が飛び散ったため、清掃で試合は中断され、青息吐息のゲラエイは十分に休養する時間を得た。
曽我部は再開後、場外ポイントを獲得してスコアは10-10になったものの、このままだと4点というビッグポイントを奪っているゲラエイの勝ちになる。必死に攻める曽我部だったが、あと1点を奪うことができない。非情にも、そのまま試合終了のホイッスルが鳴り響いた。
場内のいたるところからブーイングの大合唱。ペットボトルの投げ入れに加え、その後のゲラエイはほとんど守りっぱなしだったのだから無理もない。終盤、なぜ彼がコーションを受けなかったのかという疑問は残るが、負けは負けだ。
試合後、曽我部は涙ながらに語った。「あと一歩のところでポイントを取れないということは、その取り組みが足りなかったということ。もっとレスリングと向き合いながら考えてやっていきたい」
あとになって、第1ピリオドにゲラエイが曽我部の足を触っていることが判明した。その時点でチャレンジしていれば9-0で勝ちとなっていたが、すべては後の祭り。一度下された判定が覆ることはない。
オリンピック金メダリストからの“幻の勝利”を今後どういかすか。全ては曽我部にかかっている。来年4月のアジア予選への出場権をかけた全日本選手権(12月21~24日、東京・代々木競技場第2体育館)の男子グレコローマン67㎏級は、想像以上のし烈な闘いが繰り広げられそうだ。