※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=布施鋼治)
「今日、決勝進出を決めた人(須﨑優衣ら4選手)につなげるためにも、しっかりと優勝したいという思いが強かった。その目標が達成できたことはよかったと思いますね」
2023年世界選手権第4日。女子55㎏級決勝でジャッカラ・ウィンチェスター(米国)を撃破し、今大会で日本代表として初の優勝となった奥野春菜(自衛隊)は、自らの戴冠をリレーのタスキに例えた。
「流れってあると思う。みんなの実力を信じているんでけど、(自分が優勝すれば)もっと強気でいける」
奥野にとっては5年ぶりの世界選手権出場で、通算3度目の金メダル獲得だった。久々の晴れ舞台には感慨深いものを感じたと言う。「前回の世界選手権から5年も経ってしまった。今回、出られることがどれだけ大変で貴重なことなのか。身にしみて分かったので(会場の風景を)目に焼き付けました」
その間、けがに泣かされた時期もあったことを考えると、“復活”ととらえることもできる。しかし満足とは程遠い試合内容だったためか、優勝を決めた直後の奥野に笑顔はなかった。「うまく表現はできないけど、自分が求めている世界チャンピオンの戦い方ではなかったと思う」
具体的に言うと?
「最近の傾向として、結構、相手に合わせてしまう。そこを徹底的に直していかないと高いレベルでは勝てない」
だからと言って、順風満帆に優勝できたわけではない。AIN(ベラルーシ)との初戦では、試合中に強烈なバッティングを受け、鼻骨を骨折するというアクシデントに見舞われた。本来ならば棄権してもおかしくない大けがだったが、世界レスリング連盟(UWW)の関係者から「あなたは世界チャンピオン。テーピングしたら出場してもいい」と背中を押され、負傷箇所にテープで巻いたうえで出場続行を決意した。
「鼻を折るのは今回で3回目。たぶん2回目と同じところを折ったと思う」
テーピングをしたままだと、視界はさえぎられ、発汗とともにズレてくる。聴覚も落ち、呼吸もしづらいなどデメリットばかり。準決勝から奥野は思い切ってテーピングをとって出ることにした。
「鼻が完全に折れてもいい、くらいの気持ちで、マットに上がりました」
結局、決勝、準決勝とも奥野が鼻を気にする素振りを見せることはなかった。決勝で闘ったウィンチェスターは準決勝まで派手な勝ち方が多く、手足も奥野より長いタイプだったが、敵ではなかった。第1ピリオド、奥野は片足タックルなどで着実にポイントを重ね、最後までそのポイントを手堅く守り切った。
世界選手権では、いつからかは定かではないが、優勝者が国旗をマントのようにまとい、マットをウイニングランすることが許されている。奥野は選ばれし者だけができるセレモニーを自らプロデュースすることなくマットを降りた。
なぜ? 「内容的にウイニングランをするには値しない試合だったかと。オリンピック階級で優勝したかったというのもあります」
奥野は自分に厳しいレスラーだった。さらに「自分はあまり目立つことは得意ではない」とも本音をもらす。「少しずつ地道に結果を出しながら、存在感を出せればいいと思っています」
「これからどんなレスラーに?」という問いには、次のように答えた。「自分が思い描いている試合をやることは本当に難しい。でも、それができるようになりたいし、やらなければいけないと思っています」
現地まで応援に訪れた家族について水を向けると、親思いの娘の顔になった。「母は私が出る世界選手権には全部応援に来てくれる。いつも、行くことが決まってから連絡が来る。せわしい性格なので、飛行機の乗り換えとかが心配になるんですよね」
初戦で鼻を骨折しても顔色ひとつ変えることなく闘い続けた、奥野の“耐える力”は称賛されるべきだろう。チャンスはまだ残されている。