※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=布施鋼治)
「楽しかったです。本当に楽しかった。それだけですかね」
表彰式後、男子フリースタイル65㎏級の金メダルを首から下げた乙黒拓斗(自衛隊)は激闘を振り返った。「楽しかった」という表現を繰り返したのは、苦闘に次ぐ苦闘だっただけに、その先に楽しさを見出したのだろうか。このあたりの感覚は世界の第一線で闘うオリンピアンでなければ、分からないものかもしれない。
乙黒は、こうも言った。「(新型コロナウルスの感染拡大で)オリンピックが開催されなければ、自分が金メダルを手にすることはなかった。出るからにはベストを尽くすだけだった」
大会前から優勝候補として期待されていた乙黒だったが、この階級のメンバーは強豪揃い。初戦を勝ち抜けば、2回戦(準々決勝)でイスマイル・ムスカエフ(ハンガリー)。勝ったら準決勝でカジムラド・ラシドフ(ROC=ロシア・オリンピック委員会)と激突する可能性が高かった。
ムスカエフには2019年世界選手権の3位決定戦で、ラシドフには同選手権の3回戦で敗退している。とりわけ、ラシドフとの準決勝は天王山ともいえる大一番だったが、リベンジする絶好の機会でもあった。
乙黒はムスカエフを4-1、ラシドフを3-2で撃破し、2年前の世界選手権のリベンジを一度に果たした。準決勝後、乙黒はそれまでの闘いを振り返った。
「準々決勝と準決勝の相手は1回負けている相手。2回連続して負けることは選手として屈辱。絶対負けないという気持ちで挑みました」
いずれもロースコアでの決着だったことも、乙黒は納得していた。「オリンピックは世界最高峰の大会。圧倒的に勝つというのはめったにない。そういう覚悟で臨みました。準備したことはできています」
迎えた決勝戦。もう一方のブロックから勝ち抜いてきたのは、ハジ・アリエフ(アゼルバイジャン)だ。アリエフとは2019年の世界選手権の敗者復活戦で初めて組み合い、11-9という点取り合戦の末、乙黒が勝利をおさめている。
今大会の対戦では、第1ピリオドが終了した時点でスコアは2-2だったが、ラストポイントはアリエフが取っていたので、リードを許した状況。第2ピリオドになっても、乙黒が追う展開が続いた。
「ラスト30秒まで負けていたことは覚えています。それからはあまり覚えていない。(得意のタックルの)反復練習をたくさんやっていたので、最後はそれが感覚として出たんだと思います」
勝負を決したのは乙黒のローシングル。この一撃をアリエフはタックル返しで返そうと試みたが、このポイントは認められなかった。アゼルバイジャン側は即座にチャレンジを要求したが、ビデオ審議の結果、却下された。
残り14秒を切ると、乙黒が必死に逃げるのとは対照的に、アリエフが執拗に追い回す展開に。結局、アリエフは乙黒を捕獲することができないまま、試合終了のブザーを聞いた。
オリンピック初出場で金メダル。乙黒は歓喜のガッツポーズを披露した。そしてマットにひざまずくようにして、レスリングの神に祈りを捧げた。
「2日間で4試合。たくさんの試練を与えていただいているので、常日頃、レスリングの神様には感謝しています」
男子フリースタイルでは2012年のロンドン・オリンピックでの米満達弘以来、9年ぶりのオリンピック金メダル。乙黒は4月から所属する自衛隊体育学校ではコーチを務める米満と毎日スパーリングをしていると打ち明けた。
「尊敬しているし、日々たくさんのことを学ばせてもらっています。米満コーチや(山梨学院大時代の恩師)髙田裕司先生と同じメダルを取れたことはうれしい」
まだ22歳。2024年パリ・オリンピックでは、日本男子レスリングでは、1964年東京&1968年メキシコ大会の上武洋次郎しか成し得ていない2大会連続優勝を目指す。