※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
野田さんは、ソウル・オリンピックのあと、マツダ・サッカー部にトレーナーとして籍を置き、古巣のサッカー界で手腕を発揮することになる。Jリーグがスタートする4年前で、当時のマツダの監督はハンス・オフト氏。若い世代は知らないだろうが、ワールドカップ(W杯)初出場を目指していたサッカー全日本チームの“ドーハの悲劇”(1993年)の監督と言った方が、通りがいいだろう。
オフト監督が専任のトレーナーの必要性をチームに訴え、知り合いを通じて打診を受けた野田さんが引き受けることになった。逆に言えば、当時のサッカーでもコンディショニングに対する意識は低かった。大多数のチームが専任のトレーナーを置いておらず、数チームのみがパーソナルトレーナーを抱えていたにすぎなかった。今から考えれば、これで世界と闘うのは無理があったのではないか。
野田さんが入って多くの要求を出し、会社の支援体制は変わったものの、選手の意識が上がるまでに時間がかかった。「結局、選手からすれば(自分らは)マッサージ屋なんですよ」。競技力を上げるため専門の知識を身につけ、専門のトレーナーに体をケアしてもらおう、という選手は少なかった。ストレッチ、アイシング…。そんな言葉とは無縁の世界。タバコを吸っている選手も多かった。「減量がある分、レスリング選手の方がコンディショニングへの意識が高かったです」。
それでも、Jリーグがスタートし、「午前中は仕事の社員選手」から「プロ選手」となり、少しずつ変わっていった。ドイツでプレーしていた風間八宏選手(Jリーグで日本選手初ゴールを決めた)が先導する形で先端のスポーツ医科学が導入されていった。
日本のサッカーが1998年にW杯に初出場し、今は出るのが当たり前、優勝も狙える、というまでに競技力が上がったのは、プロ化が大きかったという。「勝たなければ、その前に試合に出なければ、金を稼げない。そういう状況になれば、体のケアや食事の重要性を身につけていくんです。タバコを吸う選手も、年々少なくなっていきましたね」
野田さんは、他に日本のサッカーが競技力を上げたこととして「ファンの目」と「上下関係の撤廃」を挙げた。
プロ化する前は閑古鳥の鳴くスタジアムでの試合が当たりまえだった。空席だらけの会場での試合と、多くの観客の応援を受けての試合とでは、選手の踏ん張りが違う。「練習のグラウンドにもファンが来るようになりました。練習の時から、選手の気持ちが違うんです」
ドイツ仕込みの風間選手(前述)が、グラウンドでの上下関係を撤廃したことも大きかった。「先輩に対しても、『なんで、あそこで(ボールを)出さないんですか!』など遠慮なく言いましたね。それまでの日本のスポーツ界ではありえなかったことだったと思いますが、そう言われたら先輩もうかうかできませんよ」。
グラウンドの中では先輩も後輩もない。勝つために最高のパフォーマンスを求め、妥協しないのがチャンピオンを目指す選手の行動だ。その言動が私生活にも出ていたら嫌われていたかもしれないが、風間選手は非常に礼儀正しく、先輩を立てる選手だったことで、その姿勢が受け入れられたという。
チームは、オフト監督のあとは、短期間の日本人監督をはさんで外国人監督の指揮が続いた。選手起用にはいかなる感情も入れず、実力がすべての采配。「これこそがプロ」と思える指揮だったという。他チームや日本代表チームでも外国人監督は多く、温情のない厳しさがサッカーの競技力を上げていった。
レスリングでも、1990年代に外国人コーチを呼び、選手の意識改革という面では大きなプラスがあった。ただ、埋められない溝もあり、マイナス面も出てきた。以後は呼んでいないが、企業チームが増えるなど“プロ化”は進んだ。代表選考も、「総合力」や「将来性」などの目に見えない要素を排除し、大会結果で選ぶ“完全結果主義”体制になった。
ハイパフォーマンス・スポーツセンターのおかげで、フィジカルトレーナー、カウンセラー、栄養士、対戦相手の分析スタッフなどサポート体制も充実してきた。ゴルフやテニスのプロのように何億円も稼げる競技ではないので、個人でそこまでできないのがつらいところだが、レスリング界でもプロ意識は間違いなく芽生えつつある。
「人気を獲得して財政の充実につなげ、プロの集団として世界一を目指してほしいですね」と野田さん。日本協会の高田裕司専務理事は、ソウル前の最後の半年間、コーチとして500日合宿に常駐し、野田さんとともにチームを管理した。西口茂樹・強化本部長と赤石光生・副本部長、女子最強軍団の栄和人・至学館大監督、ALSOKの大橋正教監督らは、いずれも500日合宿で寝食を共にした選手。そんな人たちが支える今の日本レスリングの動向は、やはり気になるようだ。
レスリング時代の大きな思い出は、ソウル・オリンピックでオフィシャル役員に名を連ね、選手村に入ったこと。500日合宿でのチームへの献身的な努力が認められた。レスリングの実績がなければ相手にされない時代。協会上層部にはかなりの反対もあったが、時の平野信昭事務局長が強烈にプッシュしてくれ、選手の闘いに間近で接することができた。その恩義は忘れないという。
「東京オリンピック、熱い闘いを期待しています」とエールを送った。