※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=スポーツニッポン記者・首藤昌史)
「ノー密」の時代にこんなことを書くと怒られそうだが、私にとってレスリングの最大の魅力は「濃密さ」といえる。マット上の接近戦、ではない。指導者や選手と取材側の距離感と言い換えてもいい。そして、その距離感の重要性を最も感じさせてくれるのが、選手の言葉だと思っている。
話は2008年にさかのぼる。北京オリンピック・イヤーの3月、韓国・済州島で行われたアジア選手権(注=当時はアジア選手権がオリンピック・アジア予選だった)。最大の焦点は、女子72kg級の浜口京子がオリンピック切符を獲得できるかどうかだった。
もう1つ、個人的に気になっていたのは女子55kg級の吉田沙保里だ。この年の1月19日、団体戦とはいえ海外選手に初黒星を喫した吉田は、大会の舞台だった中国で、そして帰国した日本で、まるで子どものように泣きじゃくっていた。
すでにオリンピック切符を確保していた吉田には、アジア選手権出場の義務はなかった。合宿での取材中も、出場するか否か、揺れ動く心理が透けて見えていた。結局は父・栄勝さんらのアドバイスで出場するのだが、もしこの大会で何かが起これば、オリンピック連覇はなくなるだろう、と考えていた。
当日の3月20日。想像していた通り、初戦から動きは硬かった。以前なら外連味(けれんみ)なく入っていたはずのタックルに躊躇している感じも伝わってきた。当然だろう。1月の敗戦は、自慢のタックルを抱え込まれ、返されて喫した失点によるもの。
済州島の古びた体育館で、私の頭の中に「イップス」(精神的な原因などにより、これまでできていた思い通りの動作ができなくなる障害=元はゴルフ用語)という言葉が浮かんだほどだった。
もちろん、その後は徐々に調子を上げ、吹っ切れたかのようにタックルも決めて優勝するのだが、何より聞きたかったのは、慣れ親しんだ栄光の味より、敗戦以来初のマットの感想だった。薄暗いミックスゾーンで、吉田はうっすら笑いを浮かべていた。
「午前中は胃が痛くて、もどしそうだった」。現役世界女王が定位置に立ったのだから、強がってもよかった。恐怖は感じなかった、とでもコメントしたら、怪物神話はもっと早くに生まれていたかもしれない。だが、人間としての弱さを露わにすることに、ためらいはなかった。
うんうん。そりゃそうだよね。霊長類最強と呼ばれるのは、もう少し先。当時25歳の素直な言葉に、魅力を感じたことを鮮明に覚えている。
東京オリンピック・パラリンピックの開催が決まって以降、「スポーツの力」なんて陳腐な言葉が一人歩きする。各競技団体は、アスリートたちにメディアトレーニングなるものを施し、「コンプライアンス」なんぞに配慮している。
だが、アスリートのありのままの言葉ほど、濃密にスポーツの価値をアピールするものはないと思う。言葉とは、生きてきた道そのもの。ごまかしはきかないし、まやかしはいらない。
2000年シドニー・オリンピック以降、断続的に取材してきたレスリングは、選手の素直な感情と言葉の宝庫だった。指導者も含めて、とりつくろったうわべだけの言葉を聞いたためしがない(便宜上のウソは何度もつかれたけど)。
それは、まるでシングレット一丁で相手と向き合う競技そのものだ。時代は変わっても、その魅力は継承してほしいと切に願っている。
首藤昌史(しゅとう・まさし)1968年、大分県生まれ。別府鶴見丘高―早大。1995年、スポーツニッポン新聞社に入社。1996年アトランタ大会以降、オリンピック担当として夏3大会、冬2大会を現地取材。現在はオリンピック担当デスク。家族は妻(1人)と1女3男。最近の不満は給付金が家長に分配されなかったことと、居酒屋の閉店が早いこと。 |
■7月11日:敗者の気持ちを知り、一回り大きくなった吉田沙保里…高橋広史(中日新聞)
■7月4日: “人と向き合う”からこそ感じられた取材空間、選手との距離を縮めた…菅家大輔(日刊スポーツ・元記者)
■6月27日: パリは燃えているか? 歓喜のアニマル浜口さんが夜空に絶叫した夜…高木圭介(元東京スポーツ)
■6月20日: 父と娘の感動の肩車! 朝刊スポーツ4紙の一面を飾った名シーンの裏側…高木圭介(元東京スポーツ)
■6月13日: レスリングは「奇抜さ」の宝庫、他競技では見られない発想を…渡辺学(東京スポーツ)
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■5月23日: 男子復活に必要なものは、1988年ソウル大会の“あの熱さ”…久浦真一(スポーツ報知)
■5月16日: 語学を勉強し、人脈をつくり、国際感覚のある人材の育成を期待…柴田真宏(元朝日新聞)
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