※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=布施鋼治)
「みんなで集まるのは刺激になる。少しずつ練習できる環境が戻ってきたのかな、と思います」
7月6日、東京・味の素トレーニングセンターで男子グレコローマンの全日本チームの合宿が再開した。練習終了後、同60㎏級の東京オリンピック代表に内定している文田健一郎(ミキハウス)は、冒頭のように合宿初日を振り返った。
「ただ、7月から合宿ができると分かってから、新型コロナウイルスの感染者数は増えた。楽しさがある一方で、怖さも残っていますね」
3月24日、東京オリンピックの1年程度の延期が決定すると、文田の気持ちは不安定になった。無理もない。この夏に予定されていた同大会に向けて、ずっと調整し続けていたのだから。
日体大に残っていたレスリング部OBや、大学の同期で故郷の山口県に戻った仲のいい山本貴裕(72kg級)に相談もした。文田は「オリンピックが延期というニュースを聞いた時には、コロナによって、これだけ苦しい状況になると思っていなかった」と思い返す。
「心の中では、『延期するまでのことなのか?』と、ずっと思っていました。延期されることで運命が変わる選手もいますからね」
しかし、4月7日に非常事態宣言が発令された前後から、とらえ方は“スポーツより命”という方向に変わっていく。「コロナのせいで、たくさんの方々が人生を狂わされていることを知りました。この状況では、とてもオリンピックを開催できないとも感じました。それからは世界を取り巻く状況を理解して、納得したうえで(コロナ禍の)練習に取り組むことができるようになりました」
いずれにせよ、こんなに長い間、マットから遠ざかったことは初めての経験だった。それでも、文田は発想の転換をはかる。「限られた環境や状況の中で、どうやって強化していくか。そういうことを考える時間を設けることができましたからね」
非常事態宣言下では自宅トレーニングが中心だった。部屋のテーブルやソファをとっぱらい、そのスペースにマットを敷き、汗を流した。「以前と比べ、体幹トレの幅が広がった気がします。過去に教えてもらったことはあるけど、ふだんの練習で手いっぱいという部分もあった。今回は、自分の中で余裕を持って体幹トレを取り入れることができたと思います」
6月29日から日体大の練習もマスクなしで再開されたが、「3密」を避けるため、60人ほどのメンバーは3分割され、1日の練習時間は1時間半に限定されているという。「正直、物足りない練習量なのでは?」と突っ込むと、文田はうなずいた。
「久しぶりの練習なので、みんな心肺機能が落ちている。なので、それに合わせてという感じですね」
文田とて、その例外ではない。「僕も心肺機能は落ちていたので、最初はすごく苦しかった。でも(対戦相手と勝負するうえでの)勘の部分は落ちていなかったので、自分でもびっくりするほど、すんなりとレスリングに戻ることができましたね」
今回の全日本合宿では、日体大ではできないことをやると決めている。「日体大でスパーリングはできるけど、陸上競技場を使ってのランニングやウエート場でのウエートトレーニングをすることはできない(7月上旬現在)。味の素トレセンではランニングもウエートもできるので、日体大ではできない練習を重点的にやろうと思っています。この3ヶ月間でやってきたことが無駄ではなかったことを証明したい」
来年のオリンピックまでの大会出場予定は白紙ながら、文田は「試合に出ずにオリンピックを迎えるということはしたくない」と言う。「真っ白な状態の1年間が加わったので、今後の状況を見ながら、出る大会を決めていけたらいいと思っています」
どの選手も、与えられた時間は平等。文田は、ピンチをチャンスに変えようとしている。