※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
──先程も少し触れていましたが、福田会長は1964年の東京オリンピックからずっと夏季オリンピックに行かれているそうですね。もしかしたら世界でオンリーワンの存在かもしれません。
福田 何らかの形で毎回オリンピックに携わっていたことは間違いありません。1964年の東京オリンピックの時には現役選手としての出場を目指していました。
──たくさん思い出がありそうですね。
福田 辛い思い出ばかりだよ(苦笑)。東京・千駄ヶ谷にあったボロアパートを協会が借り上げ、代表選手を住まわせた。練習は厳しかったけど、この合宿生活を通してオリンピックを目指す選手たちの仲間になったという意識が芽生えたことは確かです。
辛さもわかったし、強くなっていくということもわかった。普段は所属が違う選手たちと何度も練習するという経験を積むこともできた。当時は渡辺長武さん(東京オリンピックではフリースタイルのフェザー級で金メダルを獲得)が抜群の強さを誇っていたけど、一緒に練習することでどのくらいの強さかを把握することができた。
──そんなにたくさん強化合宿の効用を感じていたわけですね。
福田 もうひとつ、選手としての意識が高くなりましたね。辛かったけど、印象的な合宿でした。結局、僕は最後に上武さん(洋次郎=現姓小幡)と闘い、オリンピック代表にはなれず補欠選手止まりだった。でも、この時の貴重な経験がのちの人生に活きました。オリンピックを目指した集団生活は、みんなの意識を盛り上げたし、若い時にああいう鍛えられ方をしたということは、心の宝物として残っていますね。
──いい話ですね。
福田 私は東京オリンピックの翌年に世界チャンピオンになったけど、「レスリングをやるのは学生時代だけ」と決めていたので、そこで引退し、あとはコーチや役員として参加していくことになります。
──続く1968年のメキシコ・オリンピックは?
福田 両スタイルとも代表監督のほかは、コーチの枠がひとつずつしかありませんでした。結局、今泉さん(雄策=現・日本協会最高顧問)がフリースタイルのコーチとなり、私はそのお手伝いでメキシコに行きました。
──当時もオリンピックのIDカードをとるのは狭き門だったわけですね。
福田 1972年のミュンヘン・オリンピックもアシスタントで、正式なメンバーではありませんでした。1976年のモントリオール・オリンピックも同じアシスタントという立場で、ニューヨーク経由で現地に入った記憶があります。
──続く1980年のモスクワ・オリンピックではどういう立場で参加する予定でしたか?
福田 モスクワでようやく正式なコーチになりました。しかし、日本は不参加となり、行くことはできませんでした。のちの笹原正三会長、当時は強化委員長だったと記憶していますが、「レスリングだけは参加しよう」と努力していました。でも、願いはかなわなかった。レスリングも不参加ということが正式に決まった時、原宿の中華料理店で残念会をやったことを覚えています。
──結局正式なコーチとしてオリンピックに参加するのは、1984年のロサンゼルス・オリンピックということになるわけですね。
福田 あの時はフリースタイルの監督として参加し、全員入賞という結果を残しました。金メダルは、57㎏級の富山英明(現・日本協会副会長)、銀メダルは48㎏級の入江隆、62㎏級の赤石光生(現・日本協会強化副本部長)、82㎏級の長島偉之、90㎏級の太田章、銅メダルは52㎏級の高田裕司(現・日本協会副会長兼専務理事)だった(いずれもフリースタイル)。高田は、負けた試合の時だけは、不思議と、その試合だけ、なぜか体が動かなかったですね。
──1988年のソウル・オリンピックは?
福田 あの時はテレビの解説者としてソウルに行きました。外からレスリングを見ることができたので、貴重な経験だったと思います。
──ソウルでは52㎏級の佐藤満選手とともに、日大の後輩である48㎏級小林孝至選手が金メダルを獲得しました(いずれもフリースタイル)。
福田 小林は1回戦で前年の世界選手権2位で優勝候補だった地元韓国の選手にタックルを決め、腕を脱臼させてしまった。圧倒的な強さを見せつけての優勝でした。小林や佐藤の金メダルのほかにも、太田章が銀を取った。
──太田選手はロサンゼルスに続き、2大会連続での銀メダル獲得でした。
福田 繰り返しになるけど、ロサンゼルスでは82㎏級の長島も銀を取っている。重量級が頑張った時代ですね。