※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文・撮影=樋口郁夫)
今年8月にイランで行われた第1回アジア・スクールボーイ選手権。日本からも沼尻久・全国中学生連盟会長を団長としてフリースタイルの選抜チームが参加した。遠征中、チームを支えてくれたのが、大会が行われたカラジ出身で現在は市川コシティ・クラブを運営するジャボ・エスファンジャーニ代表(51歳)。日本在住25年。両国語ともペラペラだ。
遠征では、コミュケーションほかの面でチームに大きな貢献をしてくれた。沼尻会長は「地元チームとの交流、試合へ向かう準備、会場でのいろんな手配など、とても多くのことをやっていただきました」と話す。金メダル4個を取り、国別対抗得点で2位という好成績を挙げた一因は、ジャボさんのおかげで監督やコーチが試合に集中できたから、と言っても間違いではないだろう。
沼尻会長は「ジャカルタ・アジア大会へ向けて練習しているナショナルチームの練習の見学することができ、選手にとっては、試合に出場することと同じくらいいい経験ができました。こうしたことはジャボさんがいなければできなかったことです」と感謝する。
ジャボさんにとっては、今回が16年ぶりの里帰り。「街は、すごく変わっていましたね」と、故国の近代化に驚く一方、天候変動の影響で雨が以前より少なくなり、ほこりっぽい面も感じられたという。お世話になっていたクラブに日本チームを練習で連れて行った時の誇らしい気持ちは、今も胸に残っている。「あいさつなどの礼儀やマナーがしっかりしていて、みんな驚くんですよ」-。
会場でも日本チームの行動はすばらしく、「イラン人だけでなく、他の国の人たちもびっくりしていました。素晴らしい見本になったと思います」。サッカーでは、日本人サポーターが試合後にゴミを拾って帰る行動が世界的に高評価を得ているが、レスリングでも同様の流れができつつあれば、それはレスリング界の誇りとなる。
ジャボさんは1967年にカラジで生まれ、中学時代から国技のレスリングを始めた。社会人になって働いた会社が、フリースタイル74kg級で1990・94年アジア大会連続優勝、1994年世界選手権3位などの実績を持つベフロウズ・ヤリ氏の会社。1994年のアジア大会は東広島市で行われ、その前年には同市でアジア選手権が行われ、ヤリ氏はこの大会でも優勝。日本を気に入っていたという。
イランの経済に先が見えなかったこともあり、ヤリ氏に日本で働くことを勧められた。23歳の時、日本語を話せないまま来日。「バブル経済の最後くらいですか。仕事はすぐに見つかりました。日本人は優しく、言葉はしっかり教えてくれました」とのこと。
ただ、「家族への仕送りもあったので、朝から晩までぎっしり働きました」と、生活はかなりハードだったようだ。それでも安定するとレスリングをやりたくなった。できるところを探したところ、日大が受け入れてくれ、学生選手と練習するようになったという。
吉田直美夫人とは、職場結婚というわけではないが、仕事上のつながりで知り合った。2人の間には、日大で活躍している吉田アミン、ケイワン選手を筆頭に、男女の双子を含めて6人の子がいる。いずれもレスリングをやっている。
「日本のおかげで家族を持つことができ、幸せな家庭を築くことができました。日本に恩返しがしたいと思いました。私にできることはレスリング。道場をつくってレスリング選手を育てることで、恩返ししようと思いました」。
梱包店で働きながら、2012年に自宅から3kmの場所に土地を買い、市川コシティ・クラブを発足した。公共の交通機関が発達している都心ではないので、家族による車での送り迎えが必要な地域。駐車場のスペースも考えてかなり広い敷地を選んだ。現在は立派な建物に変わったが、当初は“掘っ立て小屋”といった感じだったとのこと。
直美夫人は「イラン人の経営する道場だから門を叩きづらかった、という面もあるかもしれませんけど、入会してくれた人に話を聞くと、『のぞくことはできても、入るのに勇気が必要だった』そうなんですよ」と笑う。