※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=布施鋼治、撮影=矢吹建夫)
全日本選抜選手権の男子グレコローマン72㎏級を制したのは井上智裕(富士工業)。2013年のアジア選手権(インド)74kg級3位にはじまり、2016年リオデジャネイロ・リンピック66kg級では5位に入賞。今年2月のアジア選手権(キルギス=72kg級)では銅メダルを獲得した実力者。しかし、いまだかつて世界選手権に出場したことがない。
優勝後の代表質問で、インタビュアーがその件について「なんか不思議」と突っ込むと、苦笑いを浮かべるしかなかった。「やっぱり(出場権がかかった試合で)勝ち切れなかったところがあったんですかね」
今大会もスムーズに勝ち上がったわけではない。中でも山本貴裕(日体大大学院)との準決勝はピンチの連続。一度はローリングで大量失点を許し、誰の目から見ても集中力が途切れたような素振りを見せていた。井上の身に、いったい何があったのか。
「いつも以上に緊張してしまい、気持ちが折れかけました。でも、今日は会社の方がいっぱい応援にきてくれた。そのおかげで最後まであきらめず闘うことができました」
家族の応援も大きな励みになった。「応援に来てくれることは知っていたけど、(子供が)ダンボールで作った手作りの応援ボードまで作っていることは知らなかったので、すごくうれしかったです」。現在小学校3年生の息子・航平君は、今年になってレスリングを始めたばかり。子煩悩な井上はできるだけ時間を作って指導するようにしていると目を細めた。
「僕と一緒でセンスはない方だと思うけど、僕とは違って、息子は『勝ちたい』『強くなりたい』という気持ちが強い。レスリングの練習ができない日も家の周りを走ったり、家の中でトレーニングしている。僕なんか、女の子に負けるのが嫌で、最初の頃はレスリングが嫌で仕方なかったんですけどね(苦笑)」
澤田夢有人(日体大)との決勝ではローリングなどで着実にポイントを重ね、8-1の大差で優勝を決めた。その際も航平君の「パパ、頑張って」という応援が大きな力になったと相好を崩した。
「レスリングを始めた息子に負けた姿は見せられない。僕が引退するまで勝ち続けたい」。そう語る一方で、世界選手権に向けて自分の試合を分析することも忘れない。最大の収穫はスタンドでポイントが取れるようになったことだという。
「もともと体力がある方ではなかったけど、少しずつついてきた気がします。準決勝で最後まで(点数を)取り切れたのは、体力がついてきたからだと思う」
課題は自分から先に点数を取りにいく姿勢だと考えている。「ヨーロッパの選手もアジアの選手もみんな強いので、楽な試合なんてひとつもないでしょう。今日みたいに先に点数を取られてしまったら、(そう簡単に)逆転なんてできないですからね」
世界の厳しさはオリンピックで経験済み。世界選手権が行われるハンガリーまで応援に来る予定の家族の声を背に、世界の頂きを極めることができるか。