※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文・撮影=樋口郁夫)
活動の場を国際特級審判からキッズ教室の代表へ変え、レスリングへ情熱を燃やし続ける-。全国少年少女選手権に2選手を引率して参加した大阪・高槻市連盟の上誠一(かみ・せいいち)代表は、国際特級審判として世界選手権など数多くの国際主要大会を裁いた名レフェリー。今春、創設者の寺内正次郎代表からバトンを引き継ぎ、全国大会にデビューした。 上誠一代表(右)と参加した高槻市連盟の選手
高槻市連盟は1985年に創立され、今では“古参”の部類に入る伝統クラブ。それまでにも、高槻市に住む同志としてコーチで参加していたが、引き継ぐにあたって伝統の重みをずっしりと感じたそうで、「寺内会長の築いた伝統をとりあえず引き継ぐことができ、ホッとしました」と安堵の表情だった。
■日体大では高田裕司・現日本協会専務理事と同期生
上代表は日体大の出身で、高田裕司・現日本協会専務理事と同期。卒業後は中学教員として中学レスリングの振興に力を注ぐとともに、審判の道に進み、1990年グッドウィル大会(米国)を皮切りに、国際レスリング連盟(FILA=現UWW)の国際特級ライセンスを獲得。浜口京子選手が初めて世界一に輝いた1997年世界女子選手権(フランス)などを裁いたりした。
全国中学生連盟の審判委員長も務め、審判の分野で欠かせない存在だった。昨年、17年間勤めた枚方一中を定年となり(再雇用で、現在は枚方蹉跎中教員)、世界レスリング連盟(UWW)の規定で国際審判員も定年となった(国内審判員は継続)。
これだけ情熱ある行動をしてきた人物を周囲が放っておくわけない。寺内代表から代表交代の打診があり、2つ返事で快諾。中学でも引き続き選手を育てている一方、これまで以上にキッズ教室の指導に力を入れて来た。
チームの方針は「健康な体、けがをしない体を作る」であり、「全国大会の優勝ありき」の指導ではない。「ここ(全国大会)で勝つには、週4、5回の練習が必要でしょう。ウチは週1回。無理はさせません。健康な体を目指し、レスリングの楽しさを知ってくれればいい」という方針だ。
■「小学校で勝てなくても、レスリングを好きになってくれば」
体の弱い子が強くなりたくて入部するケースもある。そんな子に全国で勝つための練習をさせたら、一発でレスリングが嫌いになってしまう。「小学校で勝てなくても、レスリングを好きになってくれ、中学、高校でも続けてくれるような指導をしたい」。 長谷川姫花選手(青)とセコンドの上誠一代表
一方、部員数の減少という悩みにも直面している。現在の部員は10人程度。「もう少しほしいところですね」と言い、部員を増やす努力も現在の課題。社会体育であるため学校へ行って部員募集のビラを配布することはできない。「口コミで存在を知ってもらうとか、学習塾ならビラを配れるので、そうした方法も考えています。20人、30人いれば、活気が出てくるのですが…」という希望を話す。
コーチは徳山大OBの佐藤健コーチ、関大OBの米田一彦コーチなど、レスリング経験者がそろっている。「部員が増えてコーチが足りない、となれば、いろんなつてを頼って、もっと集めます」という気持ちが実現することを願うばかりだ。
■レスリング活動はエンドレス! 終わりはない!
「60歳」というのは、多くの会社が定年と定めている年齢。しかし現在は、それで隠居する人はほとんどいない。今大会、多くの年配の指導者が生き生きとして活動している姿を見て、「レスリング活動って、エンドレス。終わりがないですね。自分も、できるところまでやってみようかな、っていう気持ちになりましたよ」-。
一度だけ遠征に同行した選手から声をかけられるなど、“同窓会”というムードもあるこの大会の雰囲気が、「すごくいいですね」とも言う。
国際特級審判になりながら、オリンピックでホイッスルを吹く機会に恵まれなかったことは、「残念です。ちょっぴり悔いが残っています」というのが正直な気持ち。それでも、コロンビアなど普通なら行くことのない国を含め、世界の20数ヶ国に足を運べたのはレスリングのおかげ。
「私を育ててくれたレスリングです。恩返ししたいです」と、残りの人生はキッズ・レスリングと歩む腹積もりだ。国際審判員を終えた上代表の新たなレスリング人生は、スタートしたばかり。
![]() 昨年の3位から飛躍した長谷川姫花(左から2人目) |
![]() 1995年ヤリギン国際大会(ロシア)で審判を務める上誠一代表。ベストレフェリー賞を受賞した。 |