※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(日本協会強化委員長・栄和人)
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第3回「35年前の世界ジュニア選手権でのほろ苦い思い出」
3スタイルの強化委員長となり、男子の大会を見る機会が増えました。3月末の全国高校選抜大会(新潟市)、4月末のJOCジュニアオリンピックカップ(横浜市)と、次代をになう若い選手の闘いぶりをじっくりと見せていただきました。
全国高校選抜大会を訪れたのは、私が鹿児島商工高校(現樟南高校)の選手として出場した1978年以来、36年ぶりのこと。今回目にした高校選手の姿を見て、36年前の自分を思い出しました。 全国高校選抜大会を視察する筆者
レスリングを始めた最初の1年間は、技を覚えるより、ひたすら体力づくりでした。しかし、それでよかった、と思う時もあります。勝負の世界、特に格闘技の世界では、勝つために最後に必要なものは体力と気力(精神力)だからです。
どんなに高度な技を持っていても、体力と気力で負けてしまっては、何の役にも立ちません。気力が最後の1秒まで続くためには、体力が必要です。体力があってこそ気力が続くのであり、体力がなくなった段階で気力もなえてしまいます。体力というベースがなくて世界で勝てた選手はいません。体力づくりの基本を忘れないでほしいと思います。
もちろん、技の習得をおろそかにしてはなりません。技と体力の両方を身につける最善の方法は、形だけの技術習得ではなく、全力で反復練習などに取り組むことです。そうすることで、試合で使える技と体力が身についていきます。
■勝負の世界の厳しさを教えてくれた菅原弥三郎コーチ
気持ちという点で、私には35年前(1979年)の世界ジュニア選手権(モンゴル)で忘れられない苦い思い出があります。自慢するわけではありませんが、私は高校時代、公式戦106戦無敗で、大学に入った年の6月に行われた全日本選手権で、年上の選手相手にレスリング生活で初めて敗北を喫しました。それでも、同世代の選手には負けない自信がありました。
ジュニアの世界選手権(62kg級)でも、もちろん優勝が目標でした。船でロシアのウラジオストックへ行き、シベリア鉄道を使って3泊4日をかけてモンゴルの首都ウランバートルへ到着。今では考えられない移動手段で決戦の地へ向かいました。チームのコーチは、1976年モントリオール・オリンピック銅メダリストの菅原弥三郎コーチ(国士舘大~秋田・五城目高教)。乗り物に弱い私を何かと気遣ってくれ、長い移動の間に打ち解けて兄貴のような存在として親しみを感じました。 すっかり近代化されたウランバートル。35年前、栄委員長の大きな転機があった
「やっぱり世界は広い。強いヤツがいる」。そんな気持ちでマットを降りた私は、おそらく負けをごまかそうとする気持ちがあったのだと思います、照れ笑いを浮かべてコーナーに戻ったのです。
すると、セコンドの菅原コーチからバスタオルが顔面に飛んできました。移動中の兄貴のような優しさだった菅原コーチとはうってかわり、鬼のような形相で「バカヤロー! 相手を見てみろ。ぶっ倒れるまで闘っているじゃないか」と一喝されました。ステレフは2人のセコンドに抱えられ、自分の力では歩けない状況でした。
勝ったステレフが自力で立てず、負けた私は笑いを浮かべて戻ってきた…。指導者なら、だれもが激怒するシーンだと思います。「おまえは何で笑いながら帰ってくるんだ!」という言葉が胸を突き刺しました。恥ずかしい気持ちでいっぱいになりました。
負けたことがほとんどないため、負けた時にどんな態度をとるべきか分からなかったことは確かです。悔しさを表に出すべきか、こらえるべきか…。おおっぴらに悔しがるのは、演技しているようで嫌でした。しかし、わずかですが「世界が相手では負けても仕方ない」という気持ちがあり、それが照れ笑いにつながったことも事実です。
これでは強豪相手に勝つことはできません。菅原コーチは、勝負の世界にかける選手に大切なことを教えてくれました。この時の経験は、その後の選手生活、そして指導者になって現在に至るまでの私を支えています。
■気力で上回り、優勝を引き寄せた霞ケ浦高校
勝負の世界で最も大切なことは、気持ちだと思います。「勝ちたい」ではなく、「勝つ」という気持ちをいかに強く持つかで、勝敗が決まると言ってもいいでしょう。もちろん、その気持ちは猛練習という裏付けがなければ芽生えません。厳しい練習を積み重ねた選手のみが強く持てるものです。 女子屈指の選手を育てたシメオン・ステレフ。生涯のライバルであり、友でもある
ところが霞ケ浦の選手が逆転のフォール勝ち。120kg級まで3連勝し、信じられないような大逆転劇が起こりました。技術的には館林の選手の方が上だったと思います。それでも霞ヶ浦が勝ったのは、霞ヶ浦の選手の方が勝利への執念が強かったからだと感じました。伝統の力もあると思いますが、練習の量と質がとから来ているのだと思います。
会場のだれもが館林の優勝を予測した中で、大澤友博監督と霞ヶ浦の選手たちだけは自チームの勝利を信じていたはずです。霞ヶ浦の選手には鍛えられているムードを感じました。この試合ほど、気持ちの大切さを感じたことはありませんでした。
なお、私の選手生活で大きな転機となったシメオン・ステレフは、1988年ソウル・オリンピックで再戦するなど世界の舞台で競い合いました。引退後はブルガリアのコーチとなり、現在はアゼルバイジャンで指導しています。女子72kg級で世界V5を達成したスタンカ・ズラテバ(ブルガリア)の師匠です。
選手生活を引退してまでもライバル関係になるとは、世界ジュニア選手権の時は全く思いませんでした。彼に会うたびに、35年前のほろ苦い出来事が思い出されますが、かけがえのない財産でもあります。彼とは死ぬまで競い合うライバルであり、友でいられるような気がします。
マットに打ち込むことで、世界中に友(ライバル)ができます。それは一生の財産になると思います。頑張ってください。
《ネバーギブアップ! 2020年、金メダル10個への挑戦》
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