※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=増渕由気子) 3つの課題に直面しながら、成功裡に終わった長崎インターハイ
決まったのは約5年前だった。大会の総務委員を務めた黒田安秀氏は、「同時期、長崎県は文化のインターハイでもある全国高等学校文化祭を受け入れることが決まっておりましたので、インターハイは1競技1会場でできる競技に絞って受け入れを決め、会場が1ヶ所か所に集中することがないよう県内に分散するようにしました。そこで、島原でレスリングを開催することになったのです」と開催の経緯を振り返った。
インターハイは、今年で60回を迎える伝統ある大会のため、毎年の大会を入念に視察していればノウハウは自然と伝授され、滞りなく進められる。黒田氏もそれを信じていた。
例年通りやれば大丈夫―。誰もがそう信じていたところに、3つの課題が浮上した。「一つ目は、女子が公開競技になったこと。2つ目は、個人戦と団体戦の日程が入れ替わったこと。3つ目は、競技ルールが大幅に変わったことです」。
■女子が公開競技に参入
1年前のことだった。インターハイで女子を公開競技として行う案が浮上した。「正式な文書は今年に入ってありました。日程や予算などは変えないことが条件でしたので、男子だけで行っていた日程に、どう女子を組み込むかが課題でした」。 黒田氏。右後方は島原にゆかりがある坂本竜馬の像
女子は公開競技のため、1つの都県から数名の選手がエントリーするなど”試運転”として行われた感じが強かった。「各階級10名程度の出場でしたので、今までと同予算、同日程(4日間)で、まかなえましたが…」(黒田氏)。
男子と同じ各階級48選手が出ることを想定すると、マット数と審判を増やして行う必要があり、女子を公式競技として行う際の課題になりそうだ。
■計量と試合進行は、初めてのやり方に戸惑う
これまでは大会前半に学校対抗戦、後半に個人戦を行っていた。これだと、学校対抗戦後に行われる個人戦の計量で、有力選手を含む多くの選手が計量失格となることが問題視されていた。そのため、今大会は前半に個人戦、後半に学校対抗戦を行うことになった。
「初日の前日に個人戦と学校対抗戦の選手全員をリミット計量し、学校対抗戦後に2kgオーバーで再計量するという形で行いました。問題だったのは女子も同日に行うことで200人以上の選手が同時に計量する形になり、どのようにすればスムーズにいくかが問題でした」と、運営面を試行錯誤したようだ。
極めつけは、オリンピック除外問題から派生したルール変更だった。「大会スケジュールはだいぶ前に決めてしまっているので、旧ルールを見越して進行予定を組みました。ですが、ルールが変わって試合がスピーディーに進むようになってしまい、進行予定より試合が早く終わってしまい、空き時間ができてしまいました」。
ルール変更は進行以外でも影響があった。以前のルールにあったボールピックアップ用のボールや箱を準備したものの、使わなくなってしまったり、用意した得点版が12点までしか表示されず、点数掲示が足りない時もあった。黒田氏は「いろいろ、頭が痛かったです」と振り返る。
様々なイレギュラー事項の対応に追われた長崎インターハイだったが、観客数が心配だった学校対抗戦の決勝(注=個人戦のみの出場の選手・コーチは帰るため)も大いに盛り上がるなど、ひとまず大会は成功に終わった。そんな黒田氏たちは、休まる暇もなく来年に向けての準備に取り掛かる。「来年はここで国体を開催します。今回のインターハイでいろいろ経験させていただいた。反省を生かして、いい大会にしたい」とさらなる飛躍を誓った。