2013.05.06

【追悼】田中忠道・福岡大部長(1969年世界王者)を悼む(下)

※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。

《「中」から続く》

 全日本学生連盟の会長就任直後に逝去された田中忠道・福岡大部長に対し、かつてのライバルや教え子が追悼のメッセージをいただきました。


■福田富昭・日本協会会長(現役時代のライバル選手。1965年世界選手権予選で敗れながら自分が代表に選ばれる)「九州を代表するすばらしい選手でした。世界選手権はボクのために出場できないことになり、申し訳ないことをしたと思っている。実力は世界一だったでしょう。全国学生連盟の会長となり、これからの活躍が期待できたたでけに、残念です」

 ■堀川哲男・福岡大監督「非常に温厚な方で、選手をしかったり、大声を出したところを見たことがない。レスリングに対して情熱を持っていたが、選手に対してはレスリングもさることながら、世間に信用される人間でなければダメだという指導をしていた。あいさつといった基本的なことをはじめ、社会で通じる人間づくりをしていた。孫をかわいがっていて、遠征先では、よく『孫にお土産を買ってくる』と言って、いなくなっていたのが印象に残っています。長島(和幸)君を採用し、後釜ができたと喜んでいたのですが…」

 ■滝山将剛・前全日本学生連盟会長「タックルでがんがん攻める日本的なレスリングではなく、長いリーチを生かしてグラウンドのうまさで勝っていった選手。迫力のある選手ではなかったが、うまくて強かった。人間的にもすばらしい人で、学生連盟の会長を安心して任せられる人だった。こんなに早く逝ってしまうとは思わなかった。学生レスリング界は優秀な人材をなくしました。残念です」

 ■藤本英男・日体大元部長(田中さんと同じく1965年世界選手権最終選考会優勝して現地へ行きながら、代表になれず)「当時は外国へ行くことも飛行機に乗ることも特別な時代。世界選手権出場というだけで、地元では壮行会が開かれ、多くの餞別が集まったんだ。帰ってから地元の人に会わせる顔がなかった。田中君も同じだったと思う。ボクは代わりに出た選手が日体大の先輩だったから仕方ないという気持ちだった。田中君はそうではなかったと思う。物静かで、とても格闘技をやる人間とは思えなかった。しかし、芯は強かった」

■小幡洋次郎さん(旧姓上武=1968年メキシコ五輪最終選考会の決勝で対戦)「粘っこいレスリング、しつこいレスリングをやるという記憶がある。メキシコの時より、東京オリンピックの国内予選に出る最後の1枠を争ったことの方が記憶に残っています。体調を壊していたとは聞いていたが、若くしてこうしたことになり、残念です」

 ■柳田英明さん(1972年ミュンヘン五輪金メダリスト=国内最終予選決勝で対戦)「手足が長く、柔軟なレスリングをする選手でした。田中君との試合が私の一世一代の勝負でした。世界王者同士の対戦ということで、注目もされました。リードされて試合が進み、第3ラウンドに逆転フォール勝ちしたんんです。あそこで負けていたら、私の金メダルはなかった。彼がオリンピックに出ても金メダルを取ったでしょう。引退してからは特に交流はなかったけど、会えば『よー!』と声をかけられるような人間でした。残念です」

 ■菅芳松・日本協会事務局次長(1972年ミュンヘン五輪代表選考会で対戦)「田中さん相手にいいタックルに入ったと思っても、いつの間にか自分が下になっていた。カウンターのうまい選手だった。日本人離れした手足の長さを武器に、相手のパワーをうまく使って攻める選手だった。全日本学生連盟の会長となり、いろいろと改革を考えていたと思う。悔やまれると思います」

 ■富山英明・日大監督(1980年栃木国体の準決勝で対戦。田中さんの引退試合になる)「世界ジュニア選手権でラスベガスへ行った時、田中さんがコーチで、何度か練習していました。カウンターのうまい独特のレスリングでした。国体では、がぶってクラッチを組み、一気に返すとカウンターでやられることを分かっていたので、ジリジリと攻めてフォール勝ちできました。あとで『一気にくると思っていたのに…』と苦笑いされました。カナダに留学されて指導を学び、練習に対する考えはしっかりしていました」

 ■池松和彦・福岡大コーチ(2004年アテネ・2008年北京両五輪出場)「今年度から一緒にやっていくことになっていました。レスリングの考え方や技術のことなどをもっと話したかったので残念です。レスリングの授業で、素人の学生にバックを取られてからのスイッチから教えるというのを部員から聞いた事がありまず。そのあたりには強いこだわりがあったようで、私にも教えてほしかったと思っています。田中先生の遺志を継ぎ、福岡のレスリングを盛り上げるためにも頑張って行きたい」

丸山敦子さん(旧姓篠村=田中さんの育てた世界チャンピオン)「私が福岡大で初の女子選手です。入学した時、田中先生は50歳を超えていましたが、ウォーミングアップからスパーリングまで2時間ずっと練習に付き添ってくれました。1998年に世界選手権に出た時はポズナニ(ポーランド)まで夫妻で応援に来てくれました。優勝でき、恩返しができたと思いました。選手から慕われていて、最後はチームと同一行動となったくらいです。2月に友達の結婚式でお会いしたのですが、(病気のため)以前と違っていましたね。闘病のことやお孫さんことを話してくれ、それが最後になりました。最後にしっかり話をすることができ、そのことはよかったと思っています」

 ■オダガキ弥生さん(旧姓浦野=カナダ在住の元世界チャンピオン)「田中先生とは福岡大学のカナダ遠征とアルバータ大学レスリング部の100周年を通して初めてお会いし、入院されるまでメールのやり取りをさせて頂きました。お会いした時は、初めてお会いしたようには思えないぐらい親しみがありました。先生は旧友との長い月日を経た再会をとても楽しんでいらっしゃいました。合同練習の時は先生自らからクリニックをされて、とてもはつらつとされていたのが今でも目に浮かびます。カナダの昔のコーチ(ゴードンバーティ)が田中先生とアルバータ大学で同期であり、彼は最後まで先生を心配して日本に行こうとしていました。またいつか必ずお会いできると思っていたので、本当に残念です」