2013.04.11

長州力が母校・専大を訪問、レスリングの五輪競技存続を訴える

※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。

アントニオ猪木や藤波辰巳らとの闘いで一世を風びしたプロレスラーで、1972年ミュンヘン五輪代表の長州力が4月10日、母校・専大のレスリング部を訪れ、後輩を激励するとともに、レスリングの五輪競技存続を訴えた(右写真)

 長州力(吉田光雄)は山口・桜ケ丘高校から当時学生界で最強だった専大へ進み、3年生の時(1972年)にミュンヘン五輪のフリースタイル90kg級に母国・韓国代表として出場。最終学年(1973年)は主将として東日本学生リーグ戦で同大学を3年ぶりの優勝に導く一方、全日本選手権と全日本学生選手権でともに両スタイルで優勝するという前人未到の快挙を達成した。

 1974年に新日本プロレスに入団。長州力のリングネームで活躍し、1982年に「オレは藤波のかませ犬じゃない」という名言とともに“維新革命”を実現。新日本プロレスのエース的な存在にのし上がり、アントニオ猪木とも激闘を繰り広げた。

 専大のレスリング場を訪れるのは久しぶりのこと。「中西(学=専大~新日本プロレス)と一度来た記憶がある」と言うが、正確にいつ以来かは覚えていない。学生時代の思い出を「寮は今と同じところにあった。練習は厳しかったよ。部屋の窓から荷物を落として逃げていく選手が多かったんだ。今なら訴えられるようなことは、しょっちゅうだったよ」と振り返った。ただ、「殴られても、目からうろこは落ちなかったなあ…」とも話した。

五輪出場の思いが芽生えてきたのは、大学2年生あたりから。その思いが実現したミュンヘン五輪では、3年先輩だった加藤喜代美がフリースタイル52kg級で優勝。「苦労していたことを知っていたので泣いてしまった」と、自身の3回戦敗退も吹っ飛ぶほどの感動を味わった。

 その五輪にレスリングがなくなろうとしていることに対し、何らかの行動を起こしたいと実現した母校訪問。「オリンピックが始まってからずっと行われている競技。続けてほしい」と話した。「栄勝(吉田沙保里選手の父)も専大なんだよ。年は同じだけど、(吉田栄勝が)遠回りしているから自分が1年上。タックルはレスリングの魅力。すばらしいレスリングを(娘に)伝えたよね」と後輩の快挙を祝福。こうしたことからも、五輪への思いは強いようだ。

 練習開始前には、現役選手を「2時間なら2時間、練習では全力で取り組んでほしい。もう40年も(リーグ戦の)優勝から遠ざかっている。決勝に残ってくれたら、応援に行く」と激励。選手達の練習を見ているうちに体がうずいたのか、レスリングシューズをはき、重量級の選手をつかまえて技術指導。レスリングへの思いを示した。

 竹田展大主将は「五輪を目指している選手にとっては、(除外問題で)士気が下がったところがある。長州さんが来て刺激になった」と話した。

自身の学生時代の1973年以来の優勝を望んだ長州力

佐藤満コーチと後輩の練習を見つめる

時に身振りをまじえて技術談義も

練習着に着替え、谷藤広基選手(2年)と練習