2013.02.06

【特集】実家の被災を乗り越え、世界を目指す…男子フリースタイル74kg級・葈澤謙(国士舘大)

※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。

(文=樋口郁夫)

 初対面の人から正しく名前を読まれることは皆無だ。昨年の全日本大学選手権84kg級優勝の葈澤謙(国士舘大=からむしざわ・けん)。岩手県下閉伊郡山田町の出身。葈澤を語るうえで、東日本大震災を欠かすことはできない。2011年3月11日の地震と津波で祖父と伯母を亡くした。親戚にまで範囲を広げると、「10人くらい亡くなっています」-。

 レスリングどころではなかった日々…。辛さを乗り越えて大学王者に輝き、2016年リオデジャネイロ五輪を目指すことを決めた。今年4月には自衛隊へ進む予定。レスリングに専念し、被災地に希望を届けようとしている。

■東日本大震災で母と兄の安否が3日以上不明

 間もなく2年を迎える震災の悲劇は、葈澤の心から消えることはない。地震のあった直後から、実家にも、母と兄にも電話はつながらなかった。母と兄は海抜0メートル地帯で仕事をしているので最悪のことが脳裏をよぎった。テレビには自分の家が燃えているシーンが流れた。

父は仕事で気仙沼へ行っていたそうで、伯母を通じて早いうちに無事が確認されたが(それでも2日後くらいだった)、母と兄は連絡がつかない。3日目に伯父とともに国道4号線を車で北上し、約16時間をかけて盛岡市の伯母の家へ。その翌日、山田町へ到着した。

 両親や兄の無事は確認されたが、家があった場所はすべてがなくなっていて、街は壊滅状態。母方の祖父と伯母が流されたようで行方不明。「地獄でした」。伯母の遺体は約1ヶ月後に家の近くで見つかった。祖父は約半年後、母らが入居した仮設住宅の奥の場所に埋まっていた。「身につけていたものがすべて残っていて、分かりました」。

 家族と親族の惨状に、レスリングどころでなくなるのももっともだろう。「大学をやめようかとも思いました。いえ、やめたくて仕方なかったです。練習をやる気になれませんでした」と辛かった日々を振り返る。ただ、親は「続けろ」と応援してくれた。

 8月の全日本学生選手権が行われる頃には持ち直して3位に入賞。全日本大学選手権でも3位に入り、最悪の状態は脱した。この段階では卒業後もレスリングを続けるつもりは毛頭なかったそうだが、昨年6月の全日本選抜選手権に出場するにあたり、「上位に入れば続ける。入れなかったらやめる」と決めて臨んだ。

 結果は、高校時代から相性の悪かった北村公平(早大)を破るなどして3位に入賞。準決勝は優勝した小島豪臣(K-POWERS)から1ピリオドを奪う健闘だった。これで卒業後もレスリングを続ける気持ちになり、11月の全日本大学選手権では84kg級で優勝。学生の大会の最後を飾るとともに、世界を目指すことを決めた。

■あと一歩だった全国王者の壁

レスリングは4歳か5歳の時、岩手の山田クラブで始めた。小学校6年生の時に全国大会3位に入賞。中学ではレスリング部がなかったので柔道部へ所属したが、レスリングをやりたい気持ちが強く、「柔道といっても、レスリングみたいな柔道でした」。柔道は中学の3年間だけと決めていて、休みの日には山田クラブに顔を出した。

 山田クラブのコーチの子供が青森・光星学院高校に行っていた関係もあり、いつの間にか光星学院高校へ進む道ができていた。「何が何でも光星学院」という気持ちではなく、「強いところだから行こうか」くらいの気持ちだったという。

 経緯はどうであれ、“水を得た魚”となった葈沢は1年生最後の全国高校選抜大会で2位に入る殊勲。国体も3位に入り、3年生では全国王者を狙える実力をつけた。しかし、1年下に北村公平(京都・京都八幡高)という“スーパー高校生”が現れ、グレコローマンの大会を含めて全国王者にはあと一歩手が届かずじまいで高校生活を終えた。

 「あと一歩で全国王者だったのに…」という気持ちが、大学でもレスリングをやる決意となり、高校の2年先輩でもある小田裕之(2010年アジア大会2位)のいる国士舘大へ。1年生の時の東日本学生春季新人戦で優勝し、翌年はJOC杯に勝って世界ジュニア選手権へ出場。順調に階段を上っていった時に、東日本大震災があった。

■もしかしたら生まれていなかった命

 紆余曲折の4年間を終え、いよいよ世界を目指す。国士舘大では和田貴広コーチの理詰めのレスリング指導を受け、「レスリングの考え方が変わりました」と振り返る。その成果は全日本大学選手権で1階級上の王者になったことで証明されたが、学生最後の大会となった12月の全日本選手権は、本来の74kg級に出場したにもかかわらず、国体で勝った相手に敗れ、安定性に欠ける一面を露呈してしまった。

自衛隊ではこのあたりを強化し、世界を目指せる実力養成が期待される。84kg級に上げる予定だった階級は、高校時代の恩師から「74kg級だ」と言われたこともあって思案中。「自衛隊へ行ってから(コーチと)相談して決めたいと思います」と言う。

 葈澤という名前は山田町周辺にもほとんない名前。「わらさわ」「こけざわ」などと呼ばれることが多かったという。名前で嫌な思いをしたことはないが、首の右側から胸にかけてある無数のあざは、子供の頃、いじめの対象になった。生まれてくる時、へその緒が二重巻きになっていて仮死状態で出てきた跡だという。

 もしかしたら、この世に生れていなかったかもしれない。生まれた時には医師から「障害が残るかもしれない」と言われたという。幸い、障害も出ずに育ち、現在に育っている。“なかったかもしれない命”と実家の被災という試練は、葈澤のこれからの人生をしっかりと支えてくれるに違いない。

 「被災地の希望の星」を目指した闘いが本格的に始まる。