※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
(文=保高幸子)
けがを乗り越えて昨年の世界選手権フリースタイル120kg級に初出場した下中隆広(岐阜県体協=右写真)。しかし、来年のロンドン五輪は96kg級での出場を狙っている。27歳直前で迎える同五輪は、下中のレスリング人生のピーク。昨年からの新しい挑戦を、今年こそ全日本選手権で実らせたいところだ。
■栄光と挫折を経験して2010年に世界選手権初出場
下中は徳島・池田高校時代の2003年に、97kg級と120kg級にわたって四冠王(全国高校選抜選手権、インターハイ、全国高校生グレコローマン選手権、国体グレコローマン)に輝き、重量級のホープとして期待された。国士舘大学でも2年生の時に世界ジュニア選手権へ出場するなど、この時点までは順調なレスリング人生を歩んでいた。
しかし、このあと試練に襲われる。ちょっとしたけがが、足首、ひじ、ろっ骨、小指の関節と全身に“転移”。4年生の時には主将に推されるも選手としての活動はほとんどできず、険しいレスリング人生を歩むことになった。レスリングをやめようとも思った。
国内での実力が全く通じなかった2010年世界選手権
もっとも、大学院生として最後の大会となる同年12月の全日本選手権で優勝できなければ、今度こそやめようと思っていた。結果は、再び荒木田を見事に下して優勝。レスリングを続けていく決心をした。
2010年5月の全日本選抜選手権で荒木田のリベンジを退け、同年の世界選手権初出場を果たした。しかし、カザフスタン選手に初戦でフォール負け。大きな挫折を味わい、「少しも勝てる要素がなかった。オレって、ニセモノの120kg級なんだな…」と打ちのめされた思いを語っている。
■過酷だった20kg級もの減量
総合格闘技に憧れてレスリングを始めた下中にとって、最重量級の120kg級は憧れの花形階級だ。しかし「世界で勝つために」と、一大決心して96kg級への再転向を決めた。世界で闘うための適性体重を96kgと決め、世界選手権から帰国後、すぐに20kg近くの減量にとりかかった。
表彰式で賞状を掲げなかった下中=右から2人目。胸中に去来したものは?
結果は2回戦で下屋敷圭貴(NEWS DELI)に敗れて上位進出ならず。120kg級の日本代表であっても、階級が違えば簡単にはいかない現実にぶつかった。それもそのはず。これほど多く減量したのは初めて。3ヶ月で20kgの減量とは、あまり例がないだろう。「バテていました。動けなかったですね」と振り返る。
だが2回目の挑戦となった今年4月の全日本選抜選手権では、「96kgに慣れてきていました」というように、本来の下中に近い闘いができていた。「試合中、全日本の時のようになったら…、と少し怖かったですが、動けました」と振り返る。この時は、96kg級の第一人者でアジア大会銅メダリストの磯川孝生(徳山大職)に96kg級の洗礼を浴びた。準決勝で敗れ、無念の3位。日本代表権の奪取は、今回の全日本選手権へ持ち越しとなった。
■階級ダウンしながら、120kg級としての実力を維持
今の下中の周りには、強い味方がそろっている。スポーツトレーナーである友人や国士舘大学のジムの恩人らが綿密なスケジュールを立てて試合に備えている。食事や生活も節制しており、コンディショニングの意識はかなり高い。
全日本合宿で練習する下中
五輪は「すごく出たいです」と下中。96kg級は2008年の北京五輪のあと、磯川が守ってきた階級。しかし、打倒磯川に燃えているわけではなく、「全員強いです。自信がある部分なんてないです」と、ひとりの挑戦者としての気持ちで挑んでいる。
10月の山口国体では減量のない120kg級に出場し、決勝で荒木田に敗れはしたものの、クリンチ勝負まで持ち込んだ。体重を落としても120kg級時代の力が残っていることを示した。3度目の96kg級参戦。磯川が守る王座をゆるがし、96kg級に混戦の嵐を巻き起こせるか!?
下中隆広(しもなか・たかひろ)=岐阜県体協 1985年9月9日、徳島県生まれ、26歳。徳島・池田高~国士舘大卒。中学時代は野球の選手。徳島・池田高からレスリングを始め、03年に96・120kg級で高校四冠王へ。国士舘大に進み、05年に96kg級で世界ジュニア選手権出場。その後、けがのため学生タイトルは無縁に終わった。卒業後に120kg級で復帰。09年全日本選抜選手権3位を経て、国体で優勝。全日本選手権でも初優勝。10年に全日本選抜選手権で優勝し、世界選手権へ出場した。その後、96kg級へ。181cm。 |