※本記事は日本レスリング協会に掲載されていたものです。
4年に一度のアジアのイベント、アジア競技大会が始まりました。恒例となった大会を裏側から見た取材日記をお届します。よろしくお願いします。(樋口郁夫)
すると、何と、、、、、、、、。増渕記者が来るではないか! 「おい、雨が降るようなことするなよな」と声をかける。そういえば、この大会期間中、一度も雨に降られなかった。4年前のドーハは、1年に3日しか雨が降らない地域とのことだったが、開会式の時に、その365分の3がやってきて、保高カメラマンはずぶ濡れになって撮影していたことを思い出した。
会場に到着。しばらくすると、記者室でモンゴルの女性記者が共同通信の森本記者のバッグを探っている! 森本記者がちょうど帰ってきて、そのシーンを見てあ然。モンゴル記者も間違いに気がついたみたいで、赤面しながらストップ。
「ドロボー!」と叫んでもおかしくないケース。人のいい森本記者だから特に文句は言わなかったけど。あとで分かったことだけど、モンゴルの女性記者は上司に「オレのバッグの中からマイクを取ってこい」とか何とか言われたらしい。決勝戦のあと、その女性記者が上司のバッグからマイクを取りだして持っていきました。
森本記者のバッグは北京五輪のプレスバッグで、モンゴルの上司も同じバッグ。モンゴルの女性記者は、バッグを間違ったようです。マイクを見て間違いに気がついた森本記者、「そういうことか」と、悪意はなかったことを理解。その記者とにっこり笑顔をかわしました。言葉は通じなくても、心が通じましたね^^
そういえば、かのスーパースター、長島茂雄さんも、よくバッグを間違ったとか。間違っただけでなく。中にあったタオルを使うなんて日常茶飯事、靴下を履いて帰ったこともあるとか。
観客席にはお馴染みの浅草応援団。これがあると、女子72kg級の試合があるという感じになります。一方、記者席にはお馴染みのイラン記者がすべていなくなりました。イランは女子のレスリングはやっていないので、もう取材する必要がないのでしょう。
イランで女子レスリングをやる日は来るのでしょうか。今回は来ませんでしたが、顔見知りの記者に聞いたことがありますが、「絶対にない」と言っていました。「50年後はあるんじゃない?」と聞いても、「絶対にない」だって。
でも、以前よりは女子に対して寛容になりました。1989年の世界選手権は女子と男子グレコローマンが同時開催。イランは「女性と同じマットには上がれない」として、全階級で出場辞退したことがありました。表彰式では普通、女性のコンパニオンが選手を誘導しますが、「女性の後は歩けない」との理由で、男のスタッフが誘導したほど。
全試合終了後のウォーミングアップ場。日本チームが練習を始めました。 |
すべて終了。深夜食を食べながら、朝日・山田記者(右)らと写真を見る増渕記者。 |
1996年のアジア選手権は初めて女子が採用された年。この時は男子両スタイルを先にやり、最終日に女子をやることで、イランも全階級で出場しました。練習の時、日本の女子チームは、イランの練習が終わったあとを見計らって練習していたくらいです。
イランが女子選手と同じマットで練習したのは、ウズベキスタンで行われた1999年のアジア選手権だったと思います。今ではごく普通に女子選手と同じマットで練習しているし、女性コンパニオンの誘導のもとで表彰台に向かっています。いつかイランで女子がやる日は来るのではないでしょうか。
女子3階級は選手数が少ないので、午前11時15分には午前セッションが終了。午後の開始まで4時間半以上。ちょっと空きすぎだ。これからは午後1時開始で、途中30分~1時間の休憩をはさんでファイナルをやるというのでいいんじゃないかな?
日本は結局、吉田沙保里選手のみが優勝。世界選手権やアジア選手権・大会で、初めて男子の金メダル数を下回りました。全試合終了後、無言でミックスゾーンを通過した西牧未央選手の話を聞こうと、係員のいなくなったウォーミングアップ場にいくと、福田富昭会長と高田裕司専務理事がいて、居残り練習をやっていました。
西牧選手も元気そう。練習がいつまで続くか分からなかったので、西牧選手の話を聞かずに執筆に入りました。次の大会はがんばってね。
こうして6日間の日程が終わりました。この日も仕事終了は午前0時。食事して、スーツケースに荷物を詰め終わって1時半。明日は朝6時のバスに乗って空港へ向かわなければなりません。増渕記者に「寝過ごすなよ。寝過して飛行機に乗れなかったら、自分でノーマル運賃払って帰ってこないとならないんだぞ」と念押ししたけど、さて、どうなりますか。
移動日を含めて8日間のご愛読、ありがとうございました。
22日で募集しました今大会バッグは、身体障害者で、レスリングを応援し、心の支えにして頑張っているという大場隆士さんを当選とさせていただきます。
たくさんのご応募ありがとうございました。はずれた方には、深くおわびします。
本HP初登場の佐野美樹(右=愛称ミキティ)カメラマン。午後はサッカーへ。 |
昼食。なぜか右の人が写ってきた。 |
バナナを食べながら仕事をしている筆者を、保高カメラマンに写された。 |
残すとこ、あと2日。疲れもたまり、早く終わってほしいという気持ちと、名残惜しいという気持ちが交錯する頃です。いつものように8時発のバスで、8時半に会場へ到着。女子が始まるため、いつもより記者の数が多くなってきた。
でも、サッカーの決勝に日本が出場するため、日本選手の決勝進出の有無にかかわらずサッカー会場へ向かうという人が多い。現状ではサッカーの方に注目がいってしまうのは仕方ないだろう。こんな時にこそ、レスリングで金メダルを取って存在をアピールしてほしかったけど、残念ながら3階級とも決勝へ行けなかった。でも、最低でも銅メダルは取ろう。
休憩のとき、廊下で増渕記者が55kg級で優勝したディルショド・マンスロフ(ウズベキスタン)に遭遇。「冷酷無比の殺人者のような顔。笑うことがあるのか」と評していて、本ブログでもその旨を書いた。ところが増渕記者は「そんなことない」と言い張り、マンスロフに対して、ニコニコ、ニコニコと笑いかけたというのです。
するとマンスロフがそれに気がつき、ニッコリと笑い返してくれたというのです。マンスロフでも笑うんだ! 増渕記者が言うには「小さくて可愛いですね」だって。あと、23日のブログで、増渕記者がマンスロフを「かっこいい」と評したと書いてありますが、本人は「絶対にそんなこと言っていない」とのこと。「おじさんぽくて、親しみがわきますね、と言ったんです」とのこと。同じようなことだ。
しかし、この日のミックスゾーンは混迷を極めました。もらった規則では、ファイナルに出た選手は、試合後に1分30秒のインタビュー時間があり、表彰式が終わったあと、10分間のインタビュー時間がもうけられています。
磯川孝生選手が銅メダルを取ったあと、最初の1分30秒はよかったのですが、表彰式後のインタビューが問題。テレビ(放映権のあるTBS)が3分くらいやってペンメディアに渡してくれたのですが、2分10秒でスタッフが「終わりだ」と言って、ドーピングルームへ連れて行ってしまいました。なぜ? 質問はこれからだと思っていたのに、これでは記事が書けない。取材のルールが書かれた用紙を示して、スタッフに強く抗議。しかし、いつもの警備野郎は「知らない。上が決めたルールだ」と言って、知らんぷり。
命令系統がいくつもあるらしい。ところが、120kg級の3位決定戦で勝った身長2メートルの中国選手のインタビューの時は、制限時間などどこ吹く風で止めようともしない。これには筆者も森本記者も怒り心頭で、警備員にゼスチャアを交えて「なぜ止めないんだ」と猛然と抗議。
「ファック・ユー」という、外国でこの言葉を使ったら身の危険を覚悟した方がいいという言葉も使って抗議(もっとも、中国人は総じて英語が分からないから、「ファックスだったらプレスルームに頼め」ぐらいに思っていたかも)。取材の“交通整理”に来ていた日本オリンピック委員会の秋葉さんが、慌てて「ダメ、ダメ」と私たちを止めたほど。
増渕記者が「樋口さんって、こんなに怒るんですね」と言ってきたけど、こんなの怒った部類に入りませんよ^^ 「年相応に丸くなった」って書いてあるでしょう。
結局、チーフおばさんが次の坂本日登美選手の時は必ず10分とってくれることにして一件落着。こうした争いの板ばさみにされたのが、学生とおぼしき日本語を話せるボランティア・スタッフ。「(磯川の時は)私がインタビューを止めたのが悪かったんです」と言ってペコリを頭を下げてきました。これには記者一同、「あなたは謝る必要はないよ」という意見で一致。増渕記者が日本のちょっとしたお土産を渡し、「あなたは悪くないわよ」と言ったら、ちょっぴり涙目になっていたそうです。ごめんね、本当にあなたは悪くないんだよ。
純情なボランティアの気持ちを考えずに激怒したことに反省、いよいよ最終日へ。
ペールワンというのは称号で、ボロというのが姓らしい。ボロ一族というのは、「パキスタンのグレイシー」とでも言うべきか、とにかくこの国ではすごい一族だったようだ。私が通信社で働いていた1985年、ロイター通信で「パキスタン・レスリングで最強の男と呼ばれたブホル・ペールワンが死去」という記事が流れてきて、記事にした記憶があります。アクラムの伯父か従兄弟(いとこ)だと思った。
私、パキスタンには2度行ったことがあります。最初が1988年のアジア選手権でイスラマバード。のちにプロレスへ行った石沢常光選手と中西学選手が一緒でした。その時、タクシーの運転手やホテルの人などに何人かに「ドゥ・ユー・ノウ、アクラム・ペールワン?」と聞くと、これがまた、みんな知っているんです。そして例外なく「イノキ」という言葉が帰ってきます。ある運転手は片言の英語で、「ファースト、アクラム・アンド・イノキ、ネクスト、ジャラ・アンド・イノキ」と言ってきました。
ジャラというのは、アクラム戦の何年か後の2度目の遠征の時にアクラムのリベンジをかけて闘った選手。弟か親戚かです。この時は60分間闘って引き分け。You-tubeで流れていますが、猪木がだるそうにやっています。パキスタンから招待されて、仕方なくやっていたという感じ。もっとも、真昼の気温が40度を超える猛暑で、いくら夜とはいえ、きつかったのでしょう。
私が2度目にパキスタンに行ったのは1998年。イランの世界選手権に行こうとして、ビザの不備のためにテヘラン空港から強制送還され(この話を書くと長くなるので省略)、その帰途、乗り換えで立ち寄ったのが猪木とアクラムが試合をしたカラチでした。あの試合から22年が経っているのに、前回と同じ質問をすると、「イノキ」って答が返ってくるんですよ。15人くらいに聞いて、19歳のホテルのフロント・スタッフ以外、すべての人の口から「イノキ」という名前が出てきました。
やっぱり、ペールワンですごい選手で、それを破った猪木は、この国では神格化されているんですね。その事実を認識しました。猪木とアクラムの試合を会場で見たという人がいて、話を聞きましたが、「アクラムは強かったけれど、全盛期をすぎていた。レスリングの強さであって、あの種の闘いの強さとは違った。猪木のキックは強烈だったね」という説明をしてくれた。「イノキを憎んだ?」という問いに、「いや、すばらしいレスラーだと尊敬した」と答えてくれた。
翌日は試合のあったカラチ・スタジアムに行ってきました。当時の東京スポーツでは、「人が入り切れず、周囲の丘にも黒山の人だかり」と報じられていましたが、見渡す限り、丘なるものはありませんでした。22年のうちに地殻変動でなくなったのかな?
そんな経緯があるだけに、パキスタンの選手を見て、ミックスゾーンで思わず「ボロ一族の末裔(まつえい)かな?」とつぶやくと、共同通信の元柔道家記者、森本任記者が「ボロ一族ねーー」と乗ってきた。え? 知っているの? 猪木がペールワンと闘ったのが1976年。森本記者が生まれたのが1975年だそうですので、1歳の時。でも、ちゃんと知っていましたよ。「今、You-tubeで(猪木とペールワンの試合が)流れていますよね。けっこう腹が出ていましたよね」と言ってくる。
さすがに元格闘家。日本の総合格闘技の原点とも言える猪木の異種格闘技戦には関心があるようだ。「東京スポーツのネタだ。中村さんは?」と話し合ったが、この日は午後からがレスリング取材だとか。松本選手に勝ってマット上で踊りだした選手を見て、「きっとボロ一族と関係あるよ」「中村さんに取材させよう」と話し合った。
この日もお昼ご飯を食べに外へ。帰りにスーパーというより、万屋(よろずや=知っているかな、この言葉)に寄って、鼻ヒゲを切るための小さなハサミを買う。ところが、このハサミ、危険物とみなされ、ゲートを通れなかったのです。こんな小さなハサミ、人を差しても蚊に刺された程度。人を殺すことはできないよ。でも、「ここに預けろ」とスタッフ。規則なら仕方ないと思い、預けたが、「いつ返してくれるのか」と聞くと、終了後だ、という。
ハサミを指差して「ノット・デンジャレス」と言っても、「規則だから」の一点張り。染谷カメラマンも、乗りかかった船と思ってくれたのか、けっこう感情を高ぶらせて「預かり書を書け」と言ってくれる。日本年に直すと50円くらいだから、なくなっても諦めはつくけど、染谷カメラマンの気持ちがうれしく、こちらも強気で反撃。
そんなやりとりを見ていたチーフらしき人が寄ってきて、ハサミを見て、「これならいいだろう」といった感じで返してくれた。最初からこうすればいいんだよ。ヒゲ切りハサミでは人を殺せません。
午後の部の前に登場した東京スポーツの中村亜希子記者に「アクラム・ペールワンって知っている?」と聞くと、「さあ?」との答え。「松本とやったパキスタンの選手が、イノキと闘った選手の末裔かもしれないよ」と教えると、「そうなんですか?」と乗ってきた。さすが東京スポーツの記者。「いや、可能性があるということで…」と答えると、「なーんだ」だって。遠い親せきとかにすればいいじゃないか。東京スポーツなら許せる。でも、あまり書く気はなさそう。
午後の部では米満達弘選手が優勝。日本男子に2個目の金メダルをもたらしてくれました。優勝したあと、どこからか日の丸の旗を手にした米満選手。その日の丸を自分の体の前に掲げました。でも、こうした場合。マントのように背中に持ってくるのが普通。そこでカメラマンが「後ろ!」と声をかけました。すると米満選手は回れ右をしてカメラマンに背中を向けたのです。
そうじゃない。それならと、体を回転してこちらに向けという意味で「回って」と言ったら、マットの上を回り始めました。カメラマンはガクッですが、これはよくある光景。ところが、だれも「やめろ」と声をかけないから、米満選手は回り続け、やめる気配がありません。すると日本オリンピック委員会の役員として役員席にいた高田裕司専務理事が「恥ずかしいから、もう下ろせ」と大声でどなり、マットを下りました。
米満選手の優勝エピソードはまだ続きます。表彰式では普通、国歌演奏が終わったあと、優勝した選手が2位、3位の選手を引き寄せ、4人で記念撮影におさまります。カメラマンが「寄って」という意味で、両手を開け閉めして「寄れ、寄れ」と伝えました。ところが米満選手はその意味が分からず、「はあ?」と言った感じで意味を確認しようとします。しかし、ちょっと距離があるため、よく伝わりません。そうこうするうちに、2位、3位の選手は表彰台から降りてしまいました。
結局、この階級はメダリストの記念撮影はなし(以上、保高カメラマンの報告でした)。あとで米満選手に聞くと、「(この種の大会で)優勝したことないから、どうやっていいか分かりませんでした」だって。確かに勝つための練習はしても、その後の練習はしないものですよね。そんな選手では、勝つことができない……。いや、そうでもないらしい。
早大の太田拓弥コーチが現役時代、勝った時のガッツポーズが様になっていたので、「練習しているの?」と聞いたら、「(普通の)練習の後、やっていました」と答えてくれたことがある。これもイメージトレーニング? まあ、目標をつくり、それに向けて頑張るということは必要なことですよね。
なお米満選手の優勝、日刊スポーツが裏一面で報じてくれました。オリンピック以外で男子のレスリングがスポーツ紙の裏一面を飾ったことは、初めてではないでしょうか? 記念に、ぜひ購入ください。バックナンバー購入はhttp://www.nikkansports.com/ns/nikkansports/paper/backnumber.html、問い合わせは、日刊スポーツ(電話03-5550-8888)まで。
いつものように朝8時発のバスで会場へ。バスへは共同通信の森本記者が連日一緒で、あとは2人。増渕記者は化粧と朝食のため8時半のバスのもよう。すべて早めに行動した方が余裕ができていいのに。
イランはレスリングが国技で、レスリングだけの新聞も発行されているくらい。1992年のアジア選手権(バルセロナ五輪)では、横浜アリーナくらいの広さで1万人くらい入る体育館がぎっしりとなり(すべて男です。宗教上の理由により、女性は観戦できません。男だけ1万人集まるというのは、ちょっと異様な光景だったけど)、そこでイラン選手が優勝した時は、大歓声で本当に耳がつんざかれた思い出があります。
冬の遠征に行った日本チームが、試合のあと帰りの飛行機まで2日の間があるというので地方の都市に招待され、地元チームと親善試合をやったことがありました。その時は体育館の入り口に黒山の人だかり。バスは人をかき分けて体育館の入り口に密着。それでもバスから体育館の扉まで2メートルほどあり、その2メートルに日本選手を一目見ようとファンが殺到。ガードマンがスクラムを組んでしっかりガードし、そんな中をを体育館に入ったという経験があります。
日本なら野球やサッカーなどで見られる光景。イランではレスリングでこうしたシーンが起こるんですよね。イランへ行くと、レスリング人であることにプライドを感じるんですよ(こういうことを言ったり、書いたりするから「イラン人」と言われるのかな?」)。そのイランも1993年2月以来、17年も行っていない。どんなふうに変わっているだろうか。イランのレスリングを熱を伝えるべく、佐藤満・男子強化委員長に「イランに遠征しよう」と声をかけているが、今一つの返事。
佐藤委員長はイランにあまりいい思い出がないから仕方ないか。1983年にイランで行われたアジア選手権に出場した佐藤委員長、テヘランは高地で髪が薄い、じゃなくて空気が薄いこともあり、酸欠状態になってダウン。ヒゲもじゃの医師に熱い口づけで人工呼吸され、一命をとりとめたという経験があるのです。彼の人生の中で、男と、しかもヒゲもじゃのおじさんとのキスはこれ一度(だと思います。詳しくは知らないけど)。そのことがトラウマとなって、行きたがらないのではないかと予想しています(ちなみに、女子の栄和人強化委員長はこの時の大会で優勝し、初めて国際大会のタイトルを獲得しました)。
まあ、田南部力、井上謙二といった若いコーチもいるわけで、任せられるわけだし、今度の冬は行きましょう。選手に「五輪チャンピオンになるには、若い選手にヒゲもじゃおじさんとキスを経験さすることだ」とかなんとか言って。
話を今大会に戻しますが、男子フリースタイルがスタート。この日の注目は、稲葉選手が昨年の世界チャンピオンの北朝鮮に勝てるかどうか。今の選手にはピントこないかもしれないけど、北朝鮮のフリースタイ軽量級の強さといったらすごかったですよ。佐藤委員長の世界チャンピオンを阻んだのは北朝鮮だし、1992年バルセロナ五輪と96年アトランタ五輪の48kg級を制したのは北朝鮮のキム・イル(今大会、北朝鮮の監督かコーチで来ていました)。前述のイランで行われたアジア選手権でも、48~62kg級の4階級で北朝鮮-イランの決勝となり、いずれも北朝鮮が地元の大歓声をものともせずに勝ったのです。
筆者の心の中には、北朝鮮のフリースタイル軽量級の強さがすりこまれています。しかし、増渕記者は今年5月のアジア選手権で湯元進一選手が昨年の世界王者の北朝鮮を破ったのを見ており、「そんなに強いんですか?」といった感じ。今大会でも稲葉選手の勝利を疑っていないようでした。
ふたを開けてみれば完敗でした。やっぱり北朝鮮は強かった。でも、その北朝鮮は前の試合でモンゴルと大接戦。そのモンゴルと3位決定戦を闘った稲葉選手は快勝しました。相性の問題であって、今回の試合結果ほど稲葉選手と北朝鮮の選手との差はないような気がします。何よりも、その北朝鮮を、60kg級から戻ったディルショド・マンスロフ(ウズベキスタン)が破ったことで、この階級にまた一人、強豪が出現したという感じです。
マンスロフは試合中、表情がまったく変わらない。金メダルの表彰式でも、ニコリともしない。ウズベキスタンの暗殺部隊で訓練を受けていたのでは、と思えるほど見た目は冷酷無比です。でも、レスリングの強豪ならだれでも「かっこいい~~」とうっとりした表情になる保高カメラマン化している増渕記者は、「かっこいいですねー」だって。
斎藤修審判委員長差し入れのお弁当(審判に割り当てられているのを、外食することになったのでを横流ししてくれました)食べたあと、午後はその増渕記者と観客席で増渕記者が「心の師」と仰ぐ霞ヶ浦の大沢友博監督と遭遇。「きのうの夜。空港までお迎えに行け、と言ったのに、行かなかったんですよ」と事実を少し曲げて報告。「仕事があったんです」と必死に打ち消す増渕記者。「そういえば稲葉君、霞ヶ浦のインターハイ20度優勝記念のバスタオルで(セコンドに預けて)試合してましたね」とごまをする。
女子72kg級で闘っていた村島文子さん。現在、旅行代理店勤務で、応援ツアーの添乗員として広州へ。 |
筆者は「そんなことまでチェックしていたの?」と増渕記者の観察力のすごさに脱帽。記者生活20数年、選手のシューズとかに目がいったことはあるけど、セコンドのバスタルに目がいったなんてこと、一度もありません。でも、それをチェックできたら「霞ヶ浦魂を持ってマットに上がった」といった記事を書けるわけで、これは記者としてすばらしい能力。見習わなければならないと感じました。でも、すべてに大ざっぱな自分には無理だろうな。
午後の部は60kg級の小田裕之選手が決勝へ進出。記者の間でもあまり知られていない選手なので、小田選手のことを知りたがっている。筆者は小田選手が全国中学生選手権で3連覇を達成した時に取材している。7年前か。でも、最近の小田選手を語れるほどではない。増渕記者がVIP席に国士館大の滝山将剛部長が来ていることを思い出し、取材したい記者をつれてVIP席に突入! かなりの時間がたってから記者の人たちが帰ってきた。
筆者は「たくさん聞けたみたいだね。(滝山部長は)話し始めたら止まらないからね」とニヤニヤ。増渕記者は「ちゃんと(話好きだってこと)伝えましたよ」。ある記者は「話が始まってから、言われたことを思い出しました」。きっとVIP席で話し相手が足りず、たまっていたものを吐き出したのでしょう。今回は筆者も滝山部長とはあいさつだけで話らしい話をしていないから、日本へ帰ってから、酒の場で小田選手の話をじっくり聞かせてもらいましょう。
この日も記者村の部屋に戻ったのは、午前様(といっても、若い人にはこの言葉、分からないだろうな)。あと3日、がんばろう!
この日から個々の責任で時間までに会場へ行くことに。それであっても、バスが30分に1本だから、必然的に同じバスになる。8時発のバスと話していたところ、増渕記者からメールで「朝ごはんしっかり食べますので、8時半で行きます」。筆者の予想はよく当たる^^
ミックスゾーンで因縁をつけてくる中国人スタッフ。抗議しても「上が決めたことだから」の一点張り。 |
プレスルームで仕事をする保高カメラマン。 |
普通は30~40分で到着するレスリング会場で、筆者のバスは定時運行だったが、増渕記者の乗ったバスはロードレースか何かの交通規制にひっかかり、1時間近くかかった。増渕記者は試合開始の9時半近くになって、息を「はあ、はあ」させながら登場。やっぱり早め行動するべきなんだ。
この日は増渕記者が記者席で、筆者はミックスゾーン。この日の10時からMPC(メーン・プレス・センター)で女子チームの会見あるとかで、記者の数が少ない。日本オリンピック委員会のし切りだと思うが、男子が試合をやっている時に会見をやらなくてもいいんじゃないの? 練習時間のからみとかで、この時間しかできなかったのだと思うけど、せめて午前の部と午後の部の間とか、どうせ練習でこちらへ来るんだから、レスリング会場の会見室でやるとか。ちょっと考えてほしかったね。
記者が少ないというのは、取材の声がよく聞こえるから、いい面もあるんですけどね。でも、ミックスゾーンで取材していると、係の人が来てあっという間に終わらせようとする。「取材時間は1分だ」とか。そんなバカな話はない。日本語の話せるスタッフに抗議すると、そばにいた「FILA」のワッペンをつけた男の中国人スタッフ2人が来て、「規則だ」とか言う。「どこが決めた規則だ」と言っても、「上が決めた」の一点張り。お役人根性のかたまりだ!
2002年に日本で行われたサッカー・ワールドカップの組織委員会もそうだった。まずい状況になると「FIFA(国際サッカー協会)が決めたことだから」と逃げる。そんなやり方、一番ひきょうだ。
でも、ミックスゾーンを通過してロビーみたいなところにまで行くと、ここは報道陣も入ることができ、自由に取材できるんですよね。だったらミックスゾーンなんて要らないじゃないか。記者で「もうミックスゾーンで取材するのはやめ、選手をつれていこう」と話し合う。
この日は、日本選手がやや不振だったこともあって、午前の部が終わって速報をアップし終わっても、まだ早い時間。そこで増渕記者、共同通信の森本記者とともに昼食へ出かける。手頃な韓国料理店があったので、「ここにしよう」と言うと、増渕記者が「ここはきのう行ったところです」と拒否。自分中心に物事を考える記者だ。結局、清潔そうな中国料理店へ入り、各自で注文。3人で23元(約300円)。安い!
報道陣休憩所で中国人スタッフ相手に、中国語講座に通っていた成果を試す増渕記者。 |
貸切となった帰りのバス・カラオケ大会となった。 |
午後の部の前に保高カメラマンがプレスルームに入ってきて、東京スポーツの中村亜希子記者に「毛抜き、売っている店があったから買ってきたわ」とか言ってきた。「おい、オレの前で、毛を抜く、とか言っていいと思っているのか!」と一喝。意味が分かったようで、2人でゲラゲラ。保高カメラマンはちょっと無神経なところがあり、「パソコンの画面がツルツルだから…」などと平気で言ってくる。
そのすぐあと、増渕記者が「鶴巻の…」と言って、急に笑い出した。人の名前を言って笑うなんて失礼じゃないか。レスリングの取材に来る女性記者やカメラマンには、もっとマナーというものを知ってもらいたい。
この日はファイナルに1人しか進めなかったこともあり、夜はやや余裕を感じる。増渕記者が「わが師」と仰ぐ茨城・霞ヶ浦の大沢友博監督が広州に着く日。到着は午後9時半。「空港までお迎えに行かなくていいのか? ゲートで三つ指ついて待っていたら感激するぞ」と言うと、ちょっと考えたふうに。しかし、原稿もあって最終的に諦める。ま、仕事だから大沢監督には納得してもらおう。
帰りのバスの“乗客”は、筆者、増渕記者、保高カメラマンの3人だけ。同乗のボランティア・スタッフが愛知県に1年在住していたとかで日本語がぺらぺら。暇だったのか話しかけてきた。話が盛り上がり、増渕記者は中国ではやっているオオカミと羊のアニメの話を持ち出す。これで一気に親密度が増す。こうしたことをちゃんと研究してくるあたりはさすがだ。筆者の教育の成果だろうな。
さらに、2人がテレサテンの歌など中国語の歌を歌い始めるなど、アルコールは入っていないのに宴会モード。貸切バスならではの光景。筆者が、かつて中国で一大スターだった「山口百恵って知っている?」と聞くと、保高カメラマンが「何、時代遅れのこと言ってんのよ」だって。でも、こちらでは今でもスーパースターとして、CDとかの売上がいいって聞いているんだけどなあ…。
20日掲載したアジア大会バッグを希望する方は、下記のパスワードを明記のうえ、jwf-homepage@memoad.jp へお申込みください。当選者発表は最終日に掲載します。
《パスワード》 =締め切りました
試合開始は9時半で、MPC(メディア・プレス・センター)から会場までバスの所要時間は43分とのこと(この「43分」と書いてあるのが面白い。普通なら「40分」とか「45分」とか書くと思うのだが…)。初日は会場の設備を調べたり、何かとやるべきことがあるから、朝7時半のバスで行くことにし、増渕記者と7時15分に宿舎建物の前で落ち合うことに。
そのため筆者は6時50分に朝食会場へ行き、しっかりおなかを満たす。予想通り増渕記者は来ない。食べるより寝る方がいいという子だから、十分に予想していた。7時15分ちょっと前に部屋から下へ降りてきた。筆者が「ブログネタ」と厳しく言っているので、時間厳守はかなり守られてきた。やはりペン(最近はパソコンは)の力は強い。ブログに書かれたら最後、周囲の人からいつまでも「遅刻ばかりだったんだってね」と言われかねない。
ミックスゾーン。フロアの一角にあるから、試合などの音で選手の声がよく聞こえない。 |
選手はこんなふにしてインタビューを受けます。 |
時間を守ったご褒美に(こんなことで「ご褒美」というのもおかしいが)、朝食会場からこっそり持ってきたパンをやる。空腹のため途中で倒れられたら困るからな。所要約30分で会場へ到着。ちょっと早すぎたか。まあ初日は余裕をもった方がいい。それでも、後から新聞記者の人たちと話したら、「7時半のバス!」と驚かれてしまった。明日からは8時のバスか。
9時半に試合開始。増渕記者は「開始式とかやらないんですか」とひと言。この種の国際大会でそんなもの、あったことがない。初日の前夜に、あるいは初日の午後のセッションの前に開会式が行われる大会はあるが、こうした総合大会は何となく試合が始まるのが常だ。確かに、レスリング競技の開始ということで、何らかのセレモニーはあった方がいいような気がする。
会場は、記者席から試合を終えた選手のインタビューをするミックスゾーンとが大きく離れている。試合が終わってからミックスゾーンまで駆け足で行っても絶対に間に合わない距離。アジア大会の前半は柔道が行われていたとのことだが、記者の多くはミックスゾーン(これがまた会場フロアの一角にある。フロアを出たところなどに作られるのが普通だが…)で試合を見て、選手を待つという感じだったそうだ。
そのミックスゾーンも、入れる記者数を制限されたりでひどかったとか。この時は東京スポーツの中村亜希子記者が「そんなバカなことないわよ!!!!!」とぶち切れたとかで、スタッフはその剣幕に恐れをなして人数制限はなくなったそうです(あくまでも伝わってきた話ですよ)。だれだったか忘れたが、ある記者から「樋口さん、ぶち切れないでくださいよ」とのアドバイス。ぶち切れるわけないでしょ、こんな穏やかで人と争わない性格の人間が!
今回は2人の記者がいるので、一人が記者席で試合の流れを取材、もう一人がミックスゾーンで選手の取材と分けることに、まず増渕記者をミックスゾーンへ。筆者は記者席で、前日から挑戦していたFc2サーバーへのアクセスに再挑戦。ネットを探していると、韓国や台湾、日本のサーバーへつないでくれる会社があり、申し込むとFc2だけでなく、You Tubeなど中国ではブロックされているホームページが見られるというのです。
「お試し」でやってみると、見事に成功! 1ヶ月980円とのことなので、すぐに申し込み、Fc2のサーバーに無事につながることになりました。当初は国際電話で日本のアクセスポイントにとばそうかとも思いましたよ。最近の人は知らないかもしれないけど、インターネットって元は電話回線でつないでいたんですよ。増渕記者の年(想像にお任せします)であっても、電話回線でつないだ経験はないそうです。でも、昔は電話が普通でした。2004年アテネ五輪の頃はLANというのがかなり一般的になってきましたが、MPCや試合会場記者席からは電話回線でホームページをアップしていました。
電話回線で日本のアクセスポイントにつなげば、中国当局の制限は受けないはずなので、理論上、つながりますよね。でも、これを試すこともなく済みました。何でもトライしてみることですね。
午前の部は長谷川恒平選手が決勝へ進出。世界選手権5連覇中のハミド・スーリヤン(イラン)を破ってくれ、快挙を達成しました。世界5連覇の選手を破るって、「すごい」以外の何ものでもないですよ。これで優勝の可能性がぐっと近くなった。
長谷川と同じ青山学院大卒業の増渕記者は子供のようにはしゃいでいる。そして「(体育館の)裏に安くておいしい店があるそうです。お昼はそこにしましょう」だって。レスリング以外では食べることしか頭にないのか! まあ、朝食を抜いてきたのでは、それも仕方ないか。偵察を兼ねてこの日はそこに行かせることにした。筆者は日本選手が好調で執筆を続けなければならなかったので、プレスセンターでカップヌードルとそなえつけのパンでしのぐ。
この日は他競技の日本の成績は今ひとつだったようなので、夕方のセッションにはかなりの記者が駆けつけました。その中には東京スポーツの中村記者の姿も。前夜、「天河中心でごはん食べよう」と誘ったのに、「先約があるから」と断りのメール(仕事の合間をぬってのデートかな?)。「亜希ちゃんとの間もこれまでだ。もう、オレに話しかけるな」というメールを送ったら、「了解ました。にゃはは^^」という返信。それを忘れて、「スーリヤンとどんな試合だったんですか?」などと声をかけてくる。脳みその記憶をつかさどる部分が欠落しているんじゃないの?
午後から駆け付けた中村亜希子記者。6日からの激務で疲れており、試合開始までエネルギー充電。 |
その中村記者が「長谷川のエピ(エピソード)は…」と話していたので。「エピって、ルイヴィトンの?」と割りこむ。すると、中村記者が信じられないことを聞いたという顔になって、「樋口さん、そんなこと知っているんですか?」って言ってくる。バカにするんじゃないよ。こう見えても、「Seventeen」や「an an」にはじまり、「JJ」「Oggi」「25ans」「Grazia」「CLASSY」、さらには「婦人画報」までを連日熟読し、女性のファッションを研究している………………、わけないけどね^^;
「奥さんに貢ぐためでしょ」と中村記者。そばにいた増渕記者が「樋口さんの奥さんはブランド志向じゃないから、そんなことないです」と、けっこう真実に近いことを言ってくる。「前の彼女か?」と中村記者。2人、これに関した話題でけっこう盛り上がっていた。女性ってのは、おしゃべり好きですよね。
55kg級の決勝では、長谷川選手が快勝。レスリング競技の最初の大会にして君が代が流れました。その長谷川選手、試合後のインタビューで、2008年のアジア選手権を報じた当ホームページ記事に掲載されたスーリヤンとの試合の写真が気に入らないと言ったとか。何でも、「自分の体が完全に宙に浮いてういる写真」だとか。そういえばあの試合、5点技を決められちゃったんですよね。
どんな写真だったかな、と思って、その記事にアクセスしてみる(クリック)。確かに長谷川選手の体が宙に浮いている。そうか、あの写真をバネにここまで来てくれたのか。あの記事を書いたのは増渕記者で、撮影したのは矢吹建夫カメラマンですけど、写真を使ったのは筆者なんですよね(恨むなら、筆者を恨んで)。
吉田沙保里選手も自分の連勝記録がストップしたことを1面で報じたスポーツ報知を額に入れて部屋に飾っておいたとか。毎日目にして、悔しさを忘れないため。記者というのは、喜ばれたことは言うまでもなく、恨まれたとしても、それが起爆剤になってくれたのなら、うれしいものなんです。あの記事のあと、長谷川選手の口からは一度もその気持ちを聞いたことがありませんでした。スーリヤンに勝つまでは封印していたのでしょう。結果を出してからモノを言う…。勝負の世界に生きる人間の鑑(かがみ)ですね。
ファイナルに3選手出場したため、執筆・編集も忙しくなり、すべてが終わったのは深夜2時近く。初日から大変な大会になったが、日本選手があっさり負けて、仕事が早く終わる日が続くよりはいい。明日からも頑張ろう。
朝9時半に朝食会場へ。記者村宿泊者は朝食がついている。増渕記者とは9時半前に食堂前で待ち合わせ。9時29分になっても来ないので、「2日連続でブログネタか」とのメールを送った瞬間、姿が見えた。「遅れてませ~ん」と強調していたが…。朝食はバイキングで、種類もたくさんあるので、食べ応えは十分。でも1週間もいると、きっと飽きてくると思う。聞いたところによると、MPC(メーン・プレス・センター)内の食堂は、10元(約130円)でバイキングだとか。今回は日本にいる時よりも金は使わないかもしれない。。
今大会のプレスへの贈呈品 |
早大の元監督の山浦さん(右)と筆者。4年ぶりの再会。左端は案内してくれた大会ボランティア。 |
11時からMPCへ行き、設備やレスリング会場行きのバスを確認。しかし、バス乗り場の案内は、行き先の会場名は書いてあるが、レスリングの会場がどこかが書いていない。そばにいたスタッフに聞いても、分からず、何かを調べてくれたが、「今日はレスリングはやっていない」だって。そんなこと聞いているんじゃないの。レスリング会場行きのバス乗り場ってどこかを聞いているの。まあ、レスリングが行われる体育館名をメモしてこなかった方にも責任はあるけど、バス乗り場の案内たる人、会場名と競技名とが分かるような資料を持っているべきじゃないかな。
こうした総合大会では、記者やカメラマンにバッグ等の“粗品”贈呈がある。北京五輪ではリュック形式のバッグで、使い勝手がよく、今も遠征の時に使っている。今回の粗品も同じようなバッグ(右写真)。形態などはほとんど同じだ。しかし筆者が北京五輪でもらったものが、まだ十分に使える。同じものをもらっても、おそらく物入れの中で寝てしまうだけだろう。もったいないから、このブログの愛読者、抽選で1名にプレゼントします(送料は当選者負担)。
今回のブログのいずれかの日に、パスワードと送信先のメールアドレスを掲載します。パスワードはアップ後、24時たったら削除します。24時間以内にアクセスのうえ、パスワードを明記のうえメールでお申し込みください。
そのあと、中国在住の早大の元監督の山浦秀幸さんと再会。2006年に広州で行われた世界選手権の時にも会場で会っている。中国に来たのが1993年だそうで、もう17年もこちらに在住。中国語もペラペラだ。最近の早大の躍進をうれしそう。大会ボランティアの一人が、運よくこの日空いていたので案内をかって出てくれ、繁華街の中国料理店で昼食。
私たちがのんびりできるのは、この日だけ。明日からは時間に追われる毎日がスタートする。案内の方の勧める中国料理をおいしくいただく。増渕記者がお土産のお茶を買いたいとのことで、近くのショップ街へ。最初行ったデパートは1袋250元(約3300円)もする高級品ばかり。これではいくつも買えないとなって、スーパーへ。ここなら数多く買える。筆者も4袋買った。
しかし、ここで大失敗! 携帯電話に保高カメラマンから着信やメールがあったので、電話してみると、計量が3時からだったのです! 計量は前の日の5時とか6時とかと相場が決まっているので、確認もせず、「このあと行けば十分に間に合う」と思って行動していたのです^^; まあ、この種の大会は計量会場に入れないし(保高カメラマンは知り合いのウズベキスタン協会の会長がうまく入れてくれたそうです)、組み合わせはMPCに行けば分かるので、致命的ななミスではない。そう思って落ち込まないことにし、5時にMPCで待ち合わせることに。
地下鉄が予想以上に混み合っていたこともあって、5時から15分ほど遅れてMPCへ。保高カメラマンを見つけ、「角が生えているな」と茶化し、遅れたおわび。「怒ってませんよ」と言っていたが、真相は?
罪滅ぼしの意味もあり、夜は最初で最後のディナーへ連れて行くことに。増渕記者が中国語で「北京ダック、しょうろんぽう、食べたい」とかぶつくた言っているから、「ラーメンで十分だろ」と言い返す。4年前に世界選手権をやった天河中心でやっている競技のためのバスに乗って広州の中心部へ。前回来たジャスコの建物があって、増渕記者は「懐かしー」と涙ぐんでいた。何でも、外国で一度行った場所に再訪したという経験がないそうです。そういう人って、それだけで感激するものなんですね。
北京ダックの店は探し出せなかったが、しょうろんぽうのある店で、まあまあ食べて、飲んで、3人で295元(約4000円)。安い! 帰りのバスはタッチの差で10時半を乗り逃し、11時発となってしまって疲れが倍増したが、明日からは「10元夕食」になるであろう(ない時もある。そのためにカップヌードルなどを持参)遠征だから、この日くらいはいいか、と言い聞かせる。明日からは増渕記者をビシビシしごくぞ!
記者村。大会後はたぶん分譲&賃貸のマンション。 すべての記者のメーン仕事場となるMPC(メーン・プレス・センター)。 保高カメラマン(右端)と合流。増渕記者とともに、最初で最後の晩さん会。
記者村。大会後はたぶん分譲&
賃貸のマンション。 |
すべての記者のメーン仕事場となる
MPC(メーン・プレス・センター)。 |
保高カメラマン(右端)と合流。
増渕記者とともに、最初で最後の晩さん会。 |
今回のフライトは午後5時10分発の全日空。早めに着いたので、先にチェックインを済ませ、空港内のパソコンがたたけるデスクでパソコンを打つ。出発間際までこんなことをしなければならないハードスケジュール。記者というのは、本当に貧乏性だ。たまには、のんびりとした海外旅行を楽しんでみたい。
税関を通過し、広州行きのゲートへ向かうと、「出国に手間取っています」とのメール。もうどうでもいい。こちらは搭乗前にビールを飲む。一緒だったら、おごってやらなければならなかっただろう。1杯分のビールが浮いた。待つこと15分。やっと遭遇。「最初の段階で10分以上遅れただろ」というと、「いえ、数分です」とかいい加減なことを言っている。こちらは最後、4時5分に振り返って、いないことを確認して金属探知機の中に入っていったことを知らないようだ。
約4時間のフライトで広州へ。先乗りの保高幸子カメラマンからメールをもらって、入国や記者IDカードのことなどの連絡を受けていたので、まあスムーズに外へ。保高カメラマンは「MPC(メーン・プレス・センター)行きのバスは1時間に1本。10時のに乗れるかどうかで」との連絡。何とか、そのバスに乗ろうと急いだが、タッチの差で間に合わず!
記者は私たち2人だけのようで(新聞社などの記者は大会の最初から広州入りしている)、最初は「小さな車を出してくれる」とのことだったが、しばらくすると「ごめんなんさい。車がなかった。11時のバスまで待って」とか。タクシーで行くと300元(約4000円)くらいかかりそうとのこと。おなかもすいたし、空港内にあるマクドナルドで空腹を満たして時間をつぶすことにした。2人でそれぞれセットを頼み、約60元(約1000円)。物価の安い国だが、マックの値段というのは日本と同じようだ。空港のマックだけが高い、なんてことはないだろう。
10時55分にバス乗り場へ戻る。ここで、ボランティアの女性に増渕記者から学んだ中国語を披露。「ヘン・クアイ」! しかし、通じない! 何度か言ってもダメ。この大会のため、半年間、中国語講座に通っていた増渕記者が言うと、やっと分かってくれて、大喜びで「シェイシェイ(謝謝)」と返してくれた。「とても、かわいい」という意味なのです。「ク・アイ」は「可愛」と書きます。日本語も「可愛い」だよね。
2人で貸し切ったバスに約1時間ゆられて記者村へ。きちんと2部屋予約して、宿泊代は6月に全額払ったのに、「1部屋分しか予約がない」とかぬかしている。予約確認書を見せ、計算させると、確かに2部屋分あり、「ごめんなさい」と言ってきた。しかし、この記者村は2部屋1セットになっていて、2部屋にひとつづつトイレ&シャワー、洗面所、ダイニングがついている。大会のあとは一般に分譲か賃貸のマンションになるのだろう。
増渕記者と2人で深夜の高速道路をドライブしたメディア・バス。 |
同じ会社の人4人が2部屋に分かれて泊ることもあるし、場合によってはまったく知らない人とユニットをシェアすることもある。2000年シドニー五輪の記者村は、4部屋に2つのトイレ&シャワー、洗面所、テーブルがあり、他の3人は全員外国人だった(ベニヤ板のプレハブ住宅で、隣の人のいびきがひどかったことを思い出す)。まあ、部屋に鍵はかかるのだから、こういう形態の宿泊があってもおかしくはない。
だからだろうか、フロントは「同じユニットでいいね」とか言ってくる。それは勘弁してよ! いくらなんでも、男と女で同じユニットはないだろ。「部屋のカギはかかるだろ」とか言ってくるが、そんな問題ではない。「とにかく分けてくれ」と突っぱね、無事、別の部屋に割り振ってくれた(よかった!)。あとで分かったことだが、ともにユニットを1人で使うことに。部屋が空いているのなら、最初からそうしろよな。
その後、早くくつろぎたいのに、増渕記者はいろいろと質問していて、なかなか部屋へ向かえない。日付が変わって午前1時。着いた日のこんな時間に、ランドリーのことや帰りの空港までのバスの時間を聞く必要があるのかいな! すべて明日、とはできないものなのかな。このあたりは男と女の感覚の違いなのだろうか。それとも、筆者が簡単すぎるのだろうか。
寝る前に記者村内のプレスセンターへ行き、無線LANなどのチェック。保高カメラマンからの報告では、中国内ではFc2のサーバーがブロックされていて、このサーバーを使っている全日本チームのサイトが見られないことが確かめられた。見られないだけならいいが、サーバーにアクセスできないので、記事をアップロードもできない。困った! まあ、今日は寝よう。疲れた。